鹿島美術研究 年報第36号
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京都画壇の19世紀―幸野楳嶺画塾資料を中心に―研究者:京都造形芸術大学非常勤講師本研究の目的は、近代京都画壇における重要画家の一人である幸野楳嶺(1844-95)の私塾資料の調査を通して、近世以前の伝統的画技をもって新たな時代へ臨んだ画家たちの動向、構想、絵画観の一端を明らかにすることにある。幸野楳嶺は、円山派の人気絵師であった中島来章のもとで、幼い頃から画の修養を積む。明治の初年には四条派の大御所であった塩川文麟門に移り、その後は久保田米僊らと共に京都府画学校や京都青年絵画研究会、京都美術協会など新しい制度作りのために奔走した。円山四条派の伝統を継ぎ、新しい京都の日本画へバトンをつないだ教育者として、まさしく近世と近代をつなぐ画家である。本研究の出発点は、近世絵画研究で知られる故土居次義氏旧蔵資料(京都工芸繊維大学所蔵)の調査中に再発見された、楳嶺自筆資料『中嶌先生鑒證代毫記』(以下、『代毫記』)にある。『代毫記』は、若き日の幸野楳嶺が師匠・中島来章の指示によって、助筆、代筆を行った作品の記録であり、生前の土居氏によって部分的に紹介されていた。ここには、近世的な師弟関係の生々しい実態が示されている。資料の全体像については、2018年5月に学会発表を行ったが、今回の計画では、資料が内在するいくつかの問題を手掛かりに、さらに研究を進めたい。第一に、師弟関係と様式継承の問題に注目する。前近代的な師匠と弟子の関係は、明治後半期になってもなおその遺風を残すが、修行時代に楳嶺が求められていたのは、代稿、代作を任されるほどの師匠の様式の会得であった。その楳嶺が教育者へと立場を変えたとき、画学校という公の場で、あるいは主宰する塾という場でどのように振る舞ったかを探る意義は深い。弟子の証言によれば、楳嶺は、まず完全に師匠の型を覚えることを求めたという。手本を用いた段階的な学習システムは、複数伝存する「習画巻」からもうかがわれる。しかし、私塾資料の中には、型の継承という概念だけでは捉えられない多様な内容が確認されている。基礎となる型に習熟して初めて個性を加えることができ、自らの表現となるという楳嶺の考え方は、近世的な伝習方法と近代的な絵画観の併存とも捉えられる。第二に、幕末から明治初期に求められた画の内容を考えたい。『代毫記』は、300点近い作品の制作記録でもあり、当時需要のあった画題や形式の傾向を知る格好の資料―107―多田羅多起子

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