鹿島美術研究 年報第36号
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② 大量に錦絵が制作されたことが「濫作」と捉えられ、各作品についての詳細な研究しばしば浮世絵の退廃期の象徴として位置付けられる傾向にある。その理由としては次の①②が理由として挙げられる。① 安定した供給や、役者の特定を似顔のみで可能にするための描写の形式化が「マンネリズム」と捉えられ、美術作品としての評価が低かった。が行われてこなかった。また、初代豊国は作品研究において、錦絵、特に役者錦絵が中心的に取り上げられる事が多く、肉筆画については個別の研究対象としてはあまり取り上げられてこなかった現状がある。(2)「文化年間以降の作品」と「肉筆画作品」の研究しかしながら、初代豊国の「文化年間以降の作品」や「肉筆画作品」は、むしろ初代豊国の画業において非常に重要な作品群であると考えられる。まず、歌川派の役者絵については、その歴史の中で画風の変化が見られる時期があり、特に文化年間における初代豊国と歌川派全体の急激な画風の変化は注目に値する。具体的には研究を進める中で、おおよそ文化七年~十二年(1810-15)の文化年間半ばにかけて、初代豊国には明確な画風の変化が見られることがわかってきている。そして、その期間は、歌川派の錦絵・版本などの作品数の急増や、初代豊国の有力な弟子達が活動を活発化させる時期とも重なり、歌川派の盤石な制作体制が整っていった時期でもある。この様な理由から、文化年間半ばの作品というのは歌川派、さらには幕末以降の浮世絵界全体を考える上で重要であったと考えられる。次に、初代豊国の肉筆画についても、これまで初代豊国研究においてあまり触れられてこなかった分野ではあるものの、実際には丁寧な描写による優品が数多く存在し、他の絵師と比較して現存する作品数も制作数も多い。したがって、初代豊国の画業を掴む上では、肉筆画に長けた絵師であったという側面についても、今後考慮すべき課題であると考えられる。以上の理由から、文化十二年の制作であり肉筆画である初代豊国作品の「九変化図」を調査研究することは、文化年間の歌川派全体の画風変化の一端を明らかにすると同時に、初代豊国による肉筆画制作の再評価を行う上でも有益であると考える。―29―

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