鹿島美術研究 年報第36号
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探るところにある。本調査研究の意義として想定されるのは、主に以下の二点である。一点目は、本調査研究を通じて、院政期に制作された絵巻の様式や図像が、鎌倉時代以降の絵巻に継承されていく様相の一端を知り得ることである。「彦火々出見尊絵巻」は、原本が失われてしまったものの、模本から窺われるその様式は、《伴大納言絵巻》や《吉備大臣入唐絵巻》といった、院政期に常磐光長ら宮廷絵師の手によって制作されたと目される絵巻の様式と近似することが指摘されている(源1976、梅津1968)。この所謂常磐光長様式は、鎌倉時代後半期の宮廷絵師・高階隆兼によって受け継がれ、《春日権現験記絵巻》等の作例にその精華が見られるが(加藤1991)、特に鎌倉時代において、隆兼周辺以外で制作された作例に、いかに院政期絵巻の様式や図像が受け継がれたのか、ということについては未だ不明な点が多い。本調査研究において、後白河院政期の宮廷画壇で制作されていた絵巻のオーソドックスな作風を示すと思われる「彦火々出見尊絵巻」の様式や図像が、「八幡縁起絵巻」に継承されていく様相の解明を進めることは、日本中世絵画史研究全体にとって重要な意義を有するであろう。二点目は、「彦火々出見尊絵巻」という作品自体の美術史上の位置が、より明確になることである。上述のごとく本作品は、後白河院政期宮廷画壇におけるオーソドックスな様式であったと目される、所謂常磐光長様式を示すものであるが、その原本が現存しないために、《伴大納言絵巻》等に比べて研究の蓄積が少ない。また、近年本作品に関する研究は、同時代の政治情勢との関わりという観点からなされることが多く、本作品をめぐって、必ずしも十分に多角的な議論がなされてきたわけではない。本調査研究において、これまで美術史学においてあまり注目されることのなかった皇祖神神話の絵画化という観点から、本作品と「八幡縁起絵巻」を比較し論じることは、従来とは異なる文脈において本作品の意味付けを試みることにつながる。なお、後白河院の蓮華王院宝蔵には、宇佐八幡宮神託事件の顛末を描いた「道鏡法師絵詞」と称される絵巻があったとされ、その詞書のみ『続群書類従』巻941に収められるが、これは八幡神の示現譚を描いたものであり、広義の「八幡縁起絵巻」に含まれるものであったと考えられる。この「道鏡法師絵詞」と「彦火々出見尊絵巻」は何らかの関わりをもって制作された可能性も想定され、そうだとすると、後白河院政期においては「彦火々出見尊絵巻」と「八幡縁起絵巻」が、皇祖神神話を描く絵巻として、併存していたという状況が考えられる。この点も視野に入れつつ検討を進めることによ―33―

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