鹿島美術研究 年報第36号
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入れたりと多彩な制作態度で知られている。こうした画業の成立背景には近衞家や二条家との交流が存在することが知られており、18世紀前期の画家と公家との関わりを探る上で極めて重要な画家であると言える。さらに、円山応挙(1733-95)が始興のモチーフのみならず、実物に即して作画する写生的態度を学ぶなど、18世紀後期以降の京都画壇の先駆けとしても注目に値する画家である。以上のような絵画史上の重要性は夙に認知されていたが、その生涯や画業については部分的にしか明らかにされていない。筆者は、始興の仏画制作に注目する。俗権力との関わりばかりが注目されてきた始興であるが、その仏画が少ないながらも現存しているという事実は、寺院からの受注が始興の生計の一部をなしていた可能性を暗示するものである。また寺院が仏画制作を始興に発注する背景を分析することで、始興が画壇の中で占めていた位置を明らかにすることとなる(例えば、泉涌寺において正月の修正会の荘厳に用いられる「諸天像」には始興筆との伝承が付されている。これは江戸時代中期に中国画を新写したものであるが、13世紀から絶えず勤修されてきた儀礼の礼拝対象が始興筆といわれる背景には、始興に対する未解明の評価があったと考えざるを得ない)。このように、本研究は新たな始興像を提供しうるものである。本研究は、始興筆と見られる「十六羅漢図」(立本寺蔵)を始興仏画の基準作として設定する。京都市上京区七本松通に面する日蓮宗本山・具足山立本寺の堂舎は、宝永5年(1708)の大火を経て、寛保3年(1743)に再建されたものである。本堂須弥壇後壁に描かれた立本寺本は「延享丙寅冬渡邊始興画」の落款をもち、再建に合わせて延享3年(1746)に描かれたことが確かである。本研究では、立本寺本の成立を考察するため主に3つのアプローチを想定している。1つ目は〈模写としての分析〉。立本寺本は、狩野元信筆「十六羅漢図」(本法寺蔵)を模したものである可能性が指摘されている。本法寺本の図像に集められた信仰や、制作時の立本寺で行われていた信仰を、主に文字史料(上京区管理『立本寺文書』等)を用いて分析する。2つ目は〈信仰的分析〉。立本寺本は本堂須弥壇の後壁に描かれている。近年、羅漢という画題が釈迦、あるいは舎利と組み合わされ儀礼空間を荘厳していた事例が次々に明らかとなっている。18世紀前期の京都という地理的、時代的条件下で立本寺本が描かれることの意義を、宗派や地域を横断してマクロな視点で捉えることを試みる。また江戸時代には名所案内としての版本が流布するようにな―43―

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