⑱ パステル画家 矢崎千代二が、東南アジア近代美術史に果たした役割に関する基礎的研究研究者: 京都工芸繊維大学非常勤講師近代の実業家による美術品収集と美術館設立について研究の進展に寄与するものと筆者は考えている。近代の実業家たちは、川崎正蔵と同時代の収集家である藤田伝三郎の藤田美術館をはじめ、大倉喜八郎の大倉集古館、嘉納治兵衛の白鶴美術館、大原孫三郎の大原美術館、根津嘉一郎の根津美術館、五島慶太の五島美術館など、莫大な財産で美術品を収集し、当人あるいはその後継者が美術館を建設して広く公開した。また、長年にわたり川崎正蔵の支援と信頼を得た松方幸次郎はヨーロッパで西洋絵画を多数収集し、日本国民に一流の西洋絵画鑑賞の機会をもたらす共楽美術館構想を持っていた。川崎正蔵の収集と美術館は、実業家達の活動に先鞭をつけるものであり、松方の共楽美術館構想の重要なきっかけになった。本研究は近代の実業家たちによる美術品の収集と公開について、新たな視点をもたらすことになるだろう。研究対象の矢崎千代二(1872-1947)は、日本近代のパステル画を牽引した画家と称されている。大幸館卒業後、東京美術学校で黒田清輝に学び、白馬会会員として油彩画を描いていたが、1918(大正7)年頃、中国へ渡った時に、旅先で使うパステルの利便性を実感し、パステル画に傾倒する。その後パステルの特性について探求を続け、外光で風景画を描くということは、形体だけではなく、刻々と移ろう光線の変化をも速写しなければならないとし、「色の速写」という言葉を冠した新しいパステル画法を提唱した。そして中国、インド、ヨーロッパ、東南アジア、南米、南アフリカ、韓国・朝鮮などを歴遊し、北京で客死するまで世界各地の風景や生活の情景を描写した臨場感あふれる非常に数多くの作品を遺した。またパステル画普及のために国産パステルの製造に深く関わるとともに、パステル画会の創設にも尽力した画家である。その活動は国内に留まらず、渡航先でも現地在住の日本人や現地の人へのパステルの普及に努め、「美術の社会化」に貢献したいと考えていた。例えば、各地への船旅の寄港地であったシンガポールにおいて、1922年、1926年、1933年に個展を開催し、200点、300点という多数の展示作品が売り切れるという大変な盛況を博しているが、住民の趣味の向上を目指したいという現地新聞社の意向に賛同し、作品は殆どが4号―51―横田香世
元のページ ../index.html#66