鹿島美術研究 年報第36号
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の小品で、値段は額縁程度という安価であった。また、現地の美術教育に資する目的で日本人学校、華人の学校や床屋などに作品を寄贈した記録が残されている。シンガポールは第二の故郷だと言うくらいに愛着を持ち、パステル画会を創設し、パステル画の指導を行った形跡もある。また、インドネシアでは、同国における西洋画の父とされるスジョヨノの師としてよく知られている。しかしながら、いずれもまだ文献による断片的な情報に過ぎず、活動の実態や現地に及ぼした影響についての調査研究は、殆どなされていない。また、戦前に東南アジアに居住していた日本人にとっての美術という観点での研究は、あまりなされてこなかった。そこで本研究では、矢崎がシンガポール及びインドネシアで制作した残存する70点余りの作品及び当時の新聞資料等をもとに、描かれている場所の確認や現地に残る資料や作品の発掘を行い、現地の人々との交友や絵画指導の状況についての解明することを目的とする。矢崎は、民衆藝術家と呼ばれていたこともあり、旅の画家ではあるが、滞在期間においては現地の人々の中に入り込んでいくタイプであったと考えられる。1920年代から1935年頃までの外地に在る日本人や現地人とのパステルを通しての交流は、いかようなものであったのか、社会的背景と共に具体的な事実を把握していくこととする。研究の価値については、3つの視点から示したい。西洋のパステル手法ではなく、独自の新しい画法を構築した矢崎の発展期が、インドネシアへの渡航時期であると捉えている。矢崎の活動を支えた人物や状況がわかれば、生活風景を活写していく表現様式へと変化した要因を見出す事ができるのではないか、というのが1つ目である。次に、矢崎がもたらしたパステルが、その後のインドネシアの洋画界をリードすることとなるスジョヨノにどのような影響を与えたのかを解明することで、ひいては東南アジアの近代洋画史におけるパステル画の位置づけができるのではないかと考えている。3つ目は、外地の日本人及び現地の一般の人々の美術への関心の高まりについてである。作品の購入だけでなく、パステル画会があった形跡もあることから、東南アジアにおける一般の人々の西洋画受容について考える端緒となればと思う。また、社会との関わりという点で、矢崎がおびただしい数の作品を制作した意図が解明できるのではないかと考えている。―52―

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