須田国太郎の絵画作品における芸術理論的背景の研究―「京都学派」との相関関係を中心に―のか、遊女歌舞伎の流れの中でいつ頃のものなのかを追求したい。ここでキーワードになるのが、阿国や遊女歌舞伎の“変遷”である。周知のように、これまで初期歌舞伎を描いた作品を語る上で、いくつかの有名な歴史的事象が繰り返し取り上げられてきた。『当代記』慶長8年の記事が語る阿国による歌舞伎創始、『孝亮宿禰日次記』慶長13年の記事が初めて語る四条河原における遊女歌舞伎などである。ただし文献資料は、有名事象の証左として断片的に使用されるにとどまり、小さな事象は見落とされてきたと言えよう。本研究では、初期歌舞伎展開当時の日記や書状など年記の明らかな資料を精査し、草創期歌舞伎に関する記述を採集し、今まで取り上げられなかった記述も含めてそれらを時系列に整理した上で、演目の種類や芸態の変化がいつ頃から登場するのかについて様相を明らかにした上で、京博本とMOA本に描かれた歌舞伎の位置づけを行う。これによって、阿国歌舞伎は懐旧的に描かれ「実況的に描いた作例は全く遺っていない」とされてきたが、京博本もそのような作例なのか、MOA本の芸態と制作年代の隔たりはあるのかといった問題を考察することができる。本研究によって、演じられた歌舞伎の年代と作品の制作年代の差を厳密に考証する素地作りが可能となり、作品に描かれた意義や役割の検討への道筋を広げることが期待できる。研究者:沖縄県立芸術大学美術工芸学部准教授個別具体的な芸術作品から、汎用的な理論的フレームを抽出することが、芸術学の学術的意義の重要な側面であり、これまで充実した諸言説が積み上げられてきたことは改めて言うまでもない。しかし、美術史学において、個別的な作品、美術家の諸実践が、芸術学的背景を充分に踏まえたうえで分析され、位置づけられることは、とりわけ日本における近代以後の美術史において、さほど行われてこなかったように思われる。近代初期における岡倉天心のようなイデオローグは別としても、このことの理由として、美術家たちが特定の芸術学的諸理論を、自らの制作においてさほど重視してこなかったということもあろうし、同時に美術史家もまた、芸術諸実践に対して、それを抽象的な理論的フレームにおいて読解しようと試みることが稀だったことにあ―61―土屋誠一
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