鹿島美術研究 年報第36号
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の作品は、同時期に活躍した狩野芳崖や明治20年代以降の東京美術学校の教育を受けた画家の作例とは異なり、一見したところでは前時代の様式を多分に保持しているように見える。しかしながら、その制作態度は、狩野派という枠に留まらず、流派を超えて多くの作例を参照し図様を練り上げるという、ある種近代的な画家の精神を内包したものでもあった。明治初年から暁斎の死去する明治22年(1889)までは、博覧会・展覧会制度の輸入などにより江戸時代には無かった「美術」が作られその制度が確立していく、まさに近代「美術」制度の揺らぎの時期と言え、上述のような暁斎の態度はこうした時代背景から生じたものと考えられる。しかしながら、暁斎研究においては作品研究の蓄積も不十分であるうえ、近代の「美術」制度と絡めた議論はほとんどなされていない。こうした現状を踏まえ、暁斎が政府の主導した「美術」制度に対して、どういった見解を持ちどういった態度を示したのか、ひとつの博覧会に焦点を絞り考察することで、明治期の暁斎の制作態度を具体的に明らかにする点に本研究の意義がある。価値近代「美術」制度については、1990年代以降、盛んに研究が行われてきた。その論点は主に明治政府の政策、制度の整備された経緯や内容、関わった官僚などに集中しており、実際にその施策を被った絵師/画家については、政策や制度の受容者として紹介されることが多い。しかし、そのような視点で論じる際、絵師/画家の個別性はしばしば見落とされがちであるように思われる。当時を生きた絵師/画家も個々が能動的に活動した個別の人間であり、政策や制度に対する態度や距離感は人それぞれに異なったことを今一度確認する必要があろう。本研究は、暁斎という1人の絵師の研究に留まらず、近代「美術」政策、制度について、その受容者であった絵師個人の視点から捉え直すという点に従来と異なる価値がある。さらに、とかく実作品と離れて議論されがちであった「美術」制度の研究を個々の作家や作品の研究に援用し、新たな研究成果を生み出すことで、明治初期美術の研究に新しい方向性を提示したい。構想筆者は、明治期の暁斎と近代「美術」制度の関わりについて継続して研究を行ってきた。暁斎が近代になって導入された制度である博覧会・展覧会にどういった態度で臨んだのかを考察するためには、その出品作を検証することが欠かせないが、暁斎の出品作で現存するものは少なく、筆者の確認する限りでは、第二回内国勧業博覧会出品の《花鳥図》《枯木寒鴉図》、第二回巴里府日本美術縦覧会出品の《山姥図》―64―

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