ジョン・エヴァレット・ミレイのファンシー・ピクチャーに関する調査研究―《あひるの子》と《長靴をはいた猫》を中心に―② 文献や作品の賛者、合作などから夜潮がどのような人物と交流を持っていたのか、③ 矢野家は代々「矢野長兵衛」を名乗る絵図師であった。夜潮自身も絵図師として活躍していた可能性が考えられ夜潮が絵画を制作する上で何らかの影響を与えていたことと考えられる。及するものであり、近代の京都画壇研究への架け橋になると思われる。構想① 夜潮に関する作品と資料を網羅し、夜潮の来歴と画業の全体像を明らかにする。また、各作品の制作背景についても追究する。人的交流が作画にどのような影響を与えているのかを明らかにする。研究者:清泉女子大学大学院人文科学研究科博士課程本調査研究は、ミレイのファンシー・ピクチャーの再評価という側面を持っている。ミレイのラファエル前派脱退後の作品は、富と名声のために同派時代の理念を放棄した、芸術的価値のない低俗なものだという批判を長らく受けてきた。特に、《シャボン玉》(1886年、ポート・サンライト、ユニリーバ、レディ・リーヴァー・アート・ギャラリー寄託)が、石鹸会社の広告に転用されたことなどから、ファンシー・ピクチャーは、ミレイの大衆迎合の象徴というような位置付けをされ、あまり重要視されてこなかったといえる。しかし、ファンシー・ピクチャーに取り組んだミレイは、大衆受けのみを考えていたわけではない。上記のように、ファンシー・ピクチャーは18世紀のイギリスで成立したものであり、特に著名な肖像画家であるジョシュア・レノルズとトマス・ゲインズバラの作品は、その肖像画よりも高値のつくほどの人気を博したことで知られる。18世紀のイギリス人画家、とりわけレノルズを自らの手本としていたミレイは、ファンシー・ピクチャーに取り組むことで、前世紀の伝統の継承者としての自らの地位を確立しようとしていたといえるだろう。さらに、同派脱退後のミレイにとって、「子ども」という存在は重要な位置を占めていた。ミレイは、まだ幼かった義妹たちをモデルとして描いた《秋の枯葉》(1856―68―長尾順子
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