鹿島美術研究 年報第36号
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較を通じて、作品受容や展開を考察し、穂庵の画業における「アイヌ絵」制作の意義について明らかにすることを目的とする。穂庵は、はじめ明治5年(もしくは6年か)に日高地方の浦河および函館、次に明治14年から2~3年間、パトロンであった瀬川安五郎の函館事業所で外交担当として、最低2回渡道していることが先行研究により紹介されている。しかしながら、渡道の時期や滞在期間については文献により揺れがあり、滞在時の動向の詳細を裏付ける資料の調査については不十分なままである。そして、この北海道滞在を契機に穂庵が描き始めた「アイヌ絵」は興味深いものである。穂庵は明治14年函館滞在中に知遇を得た素封家・杉浦家で実見した平沢屏山の作品に感動し、観察と模写をしたことが、アイヌ絵制作に挑む大きな契機であるとされている。事実、穂庵による屏山筆「蝦夷風俗十二ヶ月図屏風」(天理大学附属天理図書館、市立函館博物館)のうちの1図と酷似した作品が知られている。明治14年の上京時は、屏山はすでに没していたが、道内には屏山の弟子やその他画家たちがこうした先学の作品や写本類を持ち、アイヌイメージは定型化が進んでいたと考える。アイヌ風俗を描くということは、容貌、服装、各種儀式の描写などその独自文化に精通していなければ表現は簡単ではなかったと考える。穂庵は明治5年にアイヌのひとびとと会った実体験とアイヌの暮らしにも入り込んでいた屏山の先行作例からの学習によるところが多かっただろう。屏山や蠣崎波響を含む先行作例を含めた個々の作品調査を進めていくなかで、具体的な影響関係を指摘できる作品を追加する予定である。このことは「アイヌ絵」史の展開における穂庵の重要性を示すことにもなるだろう。さらに、当時すでにアイヌ絵を描いた著名な絵師として知られていた波響や屏山作品の所蔵家や同時代の画家たちと穂庵が交流を深めた場所として函館での書画会があったと考える。穂庵は函館滞在中に杉浦嘉七、岡野知十が編集する雑誌『巴珍報』で挿絵を担当し、岡野が携わっていた『函館新聞』の記事には当時の書画会に関するものがみられ、穂庵によるアイヌ絵についても触れられていることを発見した。引き続き文献資料調査をさらに進め、秋田から函館へと入っていった穂庵を受け入れた文人ネットワークの具体的な様相を明らかにすることができるものと考える。本研究により、穂庵の北海道滞在時の詳細および個人の画業展開を考察するだけでなく、穂庵を支援した地元秋田や北海道のパトロンとの関係性、道内滞在時の文人たちとの交流を考察することで、明治時代初期の画壇の様子、当時の東北と北海道にお―70―

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