―20世紀に新出した立体表現と周辺地域との関連―タイにおける地獄表現の現状析し、光廣の意図もさぐりつつ、改めて「牛図」という伝統的な大きな画題に取り組んだ宗達の革新にせまり、考察したい。この研究で、本作に宗達は水墨画の漢に和を取り入れるという新しい試みをしていることが明らかになり、水墨画に試みた和漢の融合の意図には、賛者が光廣という歌人だったことがひとつ提示できると考えている。また、中国の水墨画から受け継いだもの、発展させたものも提示し、宗達の「牛図」の重要性を示し、水墨画史の中における位置づけをしてみたい。また、江戸時代初期の文化における和漢の融合の解明への手がかりとしたい。研究者: 早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程、 早稲田大学會津八一記念博物館助手(学芸員)椋橋彩香本研究では、現地調査で得られた基本情報をまとめ、それらをもとに様々な視点から地獄寺への理解を試みることを目的としている。そのためにまず地獄寺の存在を「タイの地獄表現史」の中に位置づけ、タイの地獄思想史・地獄表現史をたどるなかでその制作背景や機能を考察した。そして現在までに84カ寺の地獄表現を有する(壁画を含む)の基礎調査を行い、これらの寺院ではいつ・なぜ・誰が地獄空間をつくったのか、という点を中心にアンケート調査を行なった。このようなプロセスの中で、地獄寺の成立には政治・経済・宗教的などの社会的要因が考えられ、これらの背景には1970年代という時代性が大きく影響していると結論付けた。タイにおける1970年代とはすなわち、社会への反感が表面化し、僧侶・民衆が自ら行動を起こした時代である。それまで修行に専念するのみであった僧侶は、「開発僧」として社会的な活動を行うようになり、一方民衆は「血の水曜日事件」に代表される凄惨な弾圧に疑問を呈し、断罪を求めていくようになる。さらには経済的な高度成長も相まって、タイにとって1970年代という時代は「変動の時代」となった。また、1970年代にはじまる一連の社会変動については、すでに現代文学などをはじめとした文化面でもその影響が指摘されている。よって、これらの変動が現代美術、また民衆レベルでの寺院における造形活動に影響を与えたであろうことは想像に難くない。―75―
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