鹿島美術研究 年報第36号
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中世セルビア王国の肖像画研究―寄進者とその家族―と不可分であった事を示唆する。筆者の研究によれば、郭璞『山海経図讃』には東晋王朝の正統性を保証する為、『山海経』の博物を祥瑞に詠み替える特徴がある。十六国始めに甘粛を治めた前涼は文王張駿の時代から東晋に服した漢族王朝であり、張駿にも『山海経図讃』「飛魚」の他、西王母祠を建て国家安寧を祈願した等の『山海経』の国家的受容がある点から、同時代の甘粛墓葬画像に飛魚・人面魚が多く描かれる背景に、以下を推測したい。即ち、その造営者達が甘粛という中国西北の土地を、中国古来の『山海経』神話世界における西北仙境に見立てると共に、その西北仙境に産する飛魚・人面魚を新たな神仙的祥瑞に読み換え、自らを漢文化の継承者として示した政治文化的意図である。本研究では一連の作業を通じ、古来の異形の博物志でもある『山海経』神話世界が、漢魏晋南北朝を通じ政治文化的シンボルとなると共に、個人の死後の安寧も司った異形の祥瑞世界に如何に関わったのかを、多民族文化の折衝地という甘粛の地域的特性にも目を配りつつ、明らかにする。研究者:東北学院大学大学院文学研究科研究生セルビア中世美術は、ビザンティン美術の一部と考えられているが、実際に研究する者は、現地の研究者またはその国出身者の研究者に限られており、広く知れ渡ることが少ない。その理由は以下3点が上げられる。第一に文献が古教会スラブ語で書かれ、研究書は現地の言語で書かれることが多いため、その両方を習得しなければ、研究が進められない。第二に古い聖堂が修道院にあることが多く、主要都市からも遠く離れた山の中であるため、調査がし難い。第三に1990年代にユーゴ紛争があったことが原因で外国人の調査がし難かった。このような理由から、貴重なフレスコ画が数多く残されているにも関わらず、諸外国でその存在を知ることが出来なかったと考えられる。中世セルビア王国時代(1217~1371年)に制作されたセルビアの聖堂装飾は、ビザンティン帝国の聖堂に倣って造られているが、立地条件によりロマネスク建築のバシリカ式に近い外観およびレリーフをもつ聖堂も数多く残される(ラシュカ様式建築)。その理由は、ビザンティン帝国と西ローマ帝国の狭間にあったため文化交流が行われ―79―嶋田紗千

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