鹿島美術研究 年報第36号
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津田青楓と明治後期の京都図案界研究者:渋谷区立松濤美術館学芸員津田青楓(1880-1978)は、明治初期に京都に生まれた画家である。明治から昭和という目まぐるしく変化する社会の中で、日本画、洋画、工芸、書など様々な分野で活躍し、その交友範囲も美術界にとどまらない幅広いものであった。本研究は、青楓が明治30年代に京都で手がけた図案集を取り上げ、青楓の図案やその活動が、京都図案界でどのように位置づけられるのかを考察するものである。津田青楓といえば、「犠牲者」(1933年、東京国立近代美術館蔵)などの洋画作品や、夏目漱石周辺の人物として取り上げられることはあるものの、図案家としての青楓の活動を顧みられることはほとんどない。しかし、青楓は大正時代に入ると東京に移り、富本憲吉や藤井達吉らと交わり、工芸活動にも積極的になる。高村豊周からは「工芸革新運動の急先鋒」(『工芸時代』第2巻第8号、アトリエ社、1927年)とも評されるほどであった。この大正時代の青楓について研究するためにも、その前段階である明治京都における青楓の図案研究は重要なものなのである。青楓が図案制作に携わったのは明治30年代、図案の変革期にあった京都においてである。この頃、画家が独自の感覚をもって図案を制作しようとする機運が高まっており、青楓自身も、「自己の図案を作らねばならん」(『うづら衣』第3巻序、山田直三郎、1903年)と述べ、それまでの職人的な図案制作からの脱却を唱えている。兄で華道家の西川一草亭や幼なじみの漆芸家・杉林古香とともに図案の研究会「小美術会」を結成し、日本画の師である谷口香嶠や、当時、京都に新たな美術やデザインをもたらした浅井忠を顧問に迎えて図案の研究雑誌の発行も行っていた。当時、活発に活動していた図案制作者として研究されるべき人物なのである。しかしながら、こうした青楓の図案活動は、これまで触れられることはあっても、個々の図案について論じられることはほとんどなく、未だ研究が進んでいるとは言うことができない。青楓の図案が掲載された図案集は、これまでに41冊が確認できており、図案数は約440図ある。本研究では、これらの図案集や図案の形式やモチーフごとに整理、分析し、青楓の描いた図案の傾向を探る。この頃の京都の図案集の調査はなされてはいるものの、全体像の把握にとどまり、それぞれの図案や図案家たちについては精査されたものは数少ない。また、図案教育についての研究は進んではいるが、図案集に見られる―81―大平奈緒子

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