鹿島美術研究 年報第36号
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シャーマン・コレクションの調査と研究―フランク・シャーマンが戦後日本美術に果たした役割について―旅を通して都から地方へと広範囲に活動の場を広げ、都市の文化を地方に伝える役割をも担った。その一方で彼らは、都市の中には連歌を追及し実践するための施設として草庵を営み、そこで連歌の張行や連歌の詠作に必要な古典文学の解釈や指導をおこない影響力を強めていった。草創期の茶室のなかに「市中の山居」と称される茶室があるが、これは連歌師が都市の中に営んだ草庵を想起させるたたずまいを備えている。今回の研究で資料を深く辿ることでこのふたつの共通性はより鮮明になると思われる。〈連歌師の精神性の茶人への継承〉茶の湯と連歌との関連に関しては、連歌の理念とされる「ひゑかるゝ」や「ひへやせる」といった言葉が茶の湯の精神をあらわすものとしても取り上げられている点、当時、連歌師と茶人に交流があった点、などが見出せよう。筆者は今回の研究で、この観点からも連歌師と茶人との交流に着目する。〈茶人が日常雑器に美意識を見出す過程と連歌師の精神性〉草創期の茶人が当時、主として生活の中で使用される容器であった備前(岡山)や信楽(滋賀)のやきものに茶道具としての美的価値を見出したことは既存の研究も指摘している。本研究は先行研究が看過してきた点、すなわち茶人がなぜそれらに茶道具としての美的価値を見出したのか、その選択の過程に着目する。茶人は「ひゑかるゝ」や「ひへやせる」といった連歌の理念を連歌師の草庵の生活に感じ取り、茶の湯の精神に置き換えたのではないか。つまり連歌の理念の受容が、備前焼や信楽焼の日常雑器の美的価値発見につながったのではないだろうか。以上の様に、連歌の理念がなぜ変動の時代を先導しえたのか、それを茶の湯という芸術がどう受け入れたのか、この関係と、変化の過程を詳細に知ろうとする本研究は、茶の湯の美の探究にとどまらず、変革期における芸術のありかた、他分野の芸術からの影響のひとつとしても意義がある成果となると考える。研究者:北海道立旭川美術館学芸課長本研究は、1945年から12年にわたって日本に滞在したアメリカ人の残した資料によって、シャーマンがつくった日本での芸術家ネットワーク、その功績を明らかにする―83―佐藤由美加

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