鹿島美術研究 年報第37号
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1830: Art and Politics under the Restoration, New Haven, London, Yale university press, 1989, p. 32.)を参照しても、1822年のサロンに出品されたその主題の油彩画は、たった3点のみである。それらは1824年のサロンにおいて、《キオス島の虐殺》を含め9点に増えたが、大型の歴史画として絵画化を試みたのはドラクロワただ一人であった。ギリシア人の戦いにまつわる作品が飛躍的に増加するのは、ギリシア委員会の創設以降、1826年になってからのことで、1827年のサロンには計17点の油彩画作品が展示される。先行研究ではこうした経緯に対する考察が不十分であるため、筆者が新たな解釈を提示したい。題意識から導出されるオリエントへの関心を明らかにするという点で、ドラクロワ作品の理解をより精緻なものにする意義を有している。ドラクロワのオリエント主題の中でも、ギリシア独立戦争が時事的なものであるという点は特筆に値する。1821年9月15日、ドラクロワは友人に「次の1822年のサロンデビューへ向けて、絵を一枚仕上げるつもりであり、その主題はトルコ人とギリシア人の最近の戦争から選ぶだろう」と書き送った(André Joubin, (éd.), Correspondance générale d’Eugène Delacroix, t.1, Paris, Plon, 1935, pp. 132)。結局、画家は当初の構想を放棄し、ダンテの『神曲』を題材とすることに決めたが(《地獄のダンテとウェルギリウス》)、その二年後のサロンで《キオス島の虐殺》という大作を発表することになる。ここで注目すべきは、ドラクロワが1821年9月、すなわち3月の開戦から半年後の時点で、ギリシア独立戦争を歴史画の題材にしようと構想していた点である。その反応は例外的な早さであり、アタナソグル=カルミエがまとめた、「1821年から1848年までの、ギリシア独立戦争から想を得た主題を持つ絵画および素描の一覧」(Nina また、ドラクロワが後世の画家に与えた多様な影響については、すでに様々な研究がなされてきたが、このときドラクロワがギリシア人描写を通じて獲得した肌の表現など、技法上の重要な特徴が継承されていったことを検証する手がかりを本研究は提示することができる。新古典主義からロマン主義への移行期にして、サロンに権威があった最後の世代であるドラクロワは、サロン入選やアカデミー入会を目指し試行錯誤を繰り返しながら、批評家による作品評価に晒されて制作方針を練った新時代の画家である。多数の要素が混在した過渡期のフランス画壇を、ドラクロワの着実な研究成果から出発することによって分析する足がかりを得ることができるだろう。例えば―86―Maria Athanassoglou-Kallmyer, French Images from the Greek War of Independence, 1821-

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