コンラート・ヴィッツの来歴研究―伝記史料の再検討―研究者:アムステルダム大学美術史研究所博士候補生ドラクロワと交流の深かった先行世代の画家グロは、古典主義者でありながらリュベンスを愛好し、色彩やオリエントのモティーフなどによってドラクロワと作品上の類似性を有しているが、彼がドラクロワの《地獄のダンテとウェルギリウス》を激賞し一方で《キオス島の虐殺》を批判したという事実から、グロの技法上の問題意識を明らかにすることもできるだろう。以上の意義・価値をふまえて筆者は、本研究によって明らかになるドラクロワの特異性を、彼に先行する画家たちと比較することで、19世紀初頭のフランス画壇の複層性、多様性の解明をめざす研究へと拡大することを展望している。コンラート・ヴィッツの来歴研究は、筆者の博士論文であるこの画家に関するモノグラフィーの一章を構成する基礎的研究となり、その意義、目的は、近年のコンラート・ヴィッツ研究の傾向を概観することでより明らかになる。ヴィッツに関する個別研究は現在、大きく分けて二つの方向性に分けられる。一方には、ヴィッツの画業をバーゼル公会議期の教会政治との関連で政治図像学的に研究する立場があり、この場合、様式形成を巡る議論、すなわち、1434年のバーゼル到着以前の画家の活動、および没後の様式伝播に関する考察は試みられない。もう一方には、ヴィッツの様式形成期における初期ネーデルラント絵画との接触に関する議論がある。ここでは彼がバーゼルにて工房を構える以前、実際にネーデルラントに徒弟として赴いたかどうかが問題となる。しかし、この点に関する議論は旧来的な様式批判に基づく推論の域を出ない考察が提出されるのみであり、さらなる裏付けが必要とされる。公会議期バーゼルを拠点に活動し、ジュネーヴ大聖堂の主祭壇画を対立枢機卿の注文にて手掛けるに至る自身の画業を通して、ヴィッツが、初期ネーデルラント絵画の新様式を参照点としつつ如何に独自の絵画様式を打ち立て、続く世代に影響を及ぼしたのか。この点を考察するにあたり、画家の来歴研究は具体的指針を与えうる。画家の来歴を巡る議論の再検討の出発点となるのは、画家との結びつきが確からしいバーゼル保管の史料中に度々あらわれる「ロットヴァイルのコンラート・ヴィッツ」との記録である。また、コンラート死亡後の数年間のみ、未亡人ウルズラおよび―87―沖澄弘
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