鹿島美術研究 年報第37号
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子の後見人を勤めた同史料中の「ロットヴァイルのハンス・ヴィッツ」なる人物は、先行研究において父であると目され、故に、ヴィッツがロットヴァイルに生まれたことが現在定説となっている。しかし、史料的にはハンスなる人物がコンラートの兄弟、親類である可能性もまた否定できない。更にコンスタンツに保管される手紙、裁判記録、支払に関する史料に1416年以降、画家としてハンスおよびコンラート・ヴィッツなる人物が定期的に登場する。また、1425年、ヤン・ファン・エイクが工房を構えた同年のブリュージュにて「コンスタンツのハンス」なる画家の活動が記録される。このことにより、20世紀初頭の研究者は、ハンス、コンラートのヴィッツ一族はコンスタンツに出自をもち、ロットヴァイルを経てブルージュで活動し初期ネーデルラント絵画を吸収した後、公会議期のバーゼルに需要を見込んで移動したと推測した。この説は1937年にヘヒトの研究において、税金の支払い記録からコンスタンツのコンラート・ヴィッツはバーゼルの著名画家と同姓同名の貧しい画家であったと結論づけられて以降、無視されることとなった。しかしここ数年の、ヨハン・マルウェル、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンらに関する来歴研究から明らかなように、画家は複数の地域で工房を構え、弟子にその運営管理を委託することも稀ではなく、上記の説は再検討に値する。コンスタンツの同名画家を巡る史料はヴィッツの家族構成、出自、修行地を再検討する上で、拠点バーゼルにおける法制度、画家組合をめぐる規制を念頭に入れつつ、いまいちど仔細に照らし合わされるべきであろう。さらに、筆者はこれまでの調査においてバーゼルのコンラート・ヴィッツの工房助手を勤めたとみられる画家を様式、図像、技法の観点から一人特定した。そのペーター・ムラーなる画家は1446年、ヴィッツの没年と史料的に推測される年にコンスタンツにおいて工房を構えたことが記録され、さらに、1441年にコンスタンツからユーバーリンゲンへと引っ越した「コンラート・ビッツァー」なる画家の空き家に居を構えたことが確認されている。このことは、バーゼルのコンラートがコンスタンツを中心とした広い親族ネットワークの中で都市横断的に活動した可能性をも指し示す。上で短く示したようにヴィッツの来歴研究は、初期ネーデルラント絵画、特にヤン・ファン・エイクとの接触、および、没後のヴィッツ様式の影響圏を検討する上で、上記仮説の是非に関わらず基本的指針を与えるとものとなる。よって、複数の都市にまたがる「コンラート・ヴィッツ」に関する史料を、バーゼルのコンラート・ヴィッツの伝記との関連において整理し画家の画業と結びつけ解釈することが、本調査研究の―88―

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