鹿島美術研究 年報第37号
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近代日本におけるジョン・ラスキンの受容史―徳富蘇峰と英米のラスキニアンたち:クック、ノートン、スティルマン―ったかを明確にする。本研究の意義は日本の美術館でもますます増加するであろう、パフォーマンスのみならずタイムベースドアートを対象とした作品収集、展示/再演方法についてもひとつの前例を示すことにある。また、今後の作品発表の形態に対応するためには、美術館自体の収蔵システムそのものが変化する可能性についても提言したいと考える。研究者:学習院大学大学院人文科学研究科博士後期課程満期退学 近代日本のラスキン受容において徳富蘇峰(本名猪一郎、1863~1957)が果たした役割は、計り知れない。1888年、『国民之友』に掲載された蘇峰の記事「インスピレーション」は、欧米の書物の翻訳ではなく日本人による論考の中にラスキンが登場する最初期の例である。その後も蘇峰は『国民之友』や『国民新聞』でラスキンを紹介し、1926年には『国民新聞』に全17回の連載「ラスキン」を執筆した。近代日本の知識人たちの関心を捉えたジョン・ラスキン(1819~1900)には、多彩な顔がある。美術批評家、美術教育者、コレクター、また社会思想家・実践家として、19世紀イギリスの美術と社会のあり方を問い、その理想像を発信しつづけた。筆者が執筆中の博士論文は、とくに美術批評家、美術教育者としてのラスキンの受容の歴史を跡付ける試みであり、対象とする期間は『大日本美術新報』にラスキンの名が現れる1884年から、御木本隆三がラスキン文庫を設立する1934年までの半世紀である。その最初期から一貫して、ラスキンに関心を寄せつづけたのが、蘇峰である。筆者の調査研究の過程で、ラスキン受容の二つの経路が明らかになってきた。一つは、ラスキンからハーバード大学美術史学教授チャールズ・エリオット・ノートン(1827~1908)へ、ノートンからアーネスト・フェノロサ、そして岡倉覚三へと語り継がれたアメリカ経由の受容であり、もう一つは、久米桂一郎によるフランス経由の受容である。久米が留学した19世紀末のフランスでは、小説家マルセル・プルーストだけでなく、印象派や新印象派の画家・批評家によってラスキンの著作が読まれ、ラスキン熱が高まっていた。アメリカとフランスで学んだ岩村透による受容は、この二―93―三木はるか

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