ミニマル・アートにおけるパトロネージの研究―再制作とオリジナリティをめぐって―国のラスキン受容の視点を内包するものとして位置付けられる。こうした東京美術学校の教授陣による受容の一方で、ジャーナリストであった蘇峰の受容の特徴は、ラスキン存命中の1896~1897年に、のちにラスキン全集の編者となるイギリスの新聞記者、エドワード・クック(1857~1919)や、アメリカでのラスキン受容をけん引した同国のラスキニアンたち――上記ハーバード大学のノートンや、美術雑誌『クレヨン』の創刊者ウィリアム・スティルマン(1828~1901)らと、じかに交流していた点にある。ラスキン関連の日本語の文献史を繙くと、蘇峰のラスキンへの関心は、一時期民友社で働いていた内田魯庵の丸善での仕事に引き継がれていったように見受けられる。例えば、魯庵が1902年に丸善の月報『学鐙』に執筆した「ラスキン研究の栞」や、1910年の洋書50選があり、ラスキンの『近代画家論』は48番目に挙げられている。丸善と『学鐙』が持ちえた影響力を考えれば、魯庵のラスキン紹介には大きな意義があった。したがって、蘇峰のラスキン関連の著述を精査するとともに、蘇峰と英米の著名なラスキニアンたちとの交流の経緯を仔細に検証することは、近代日本のラスキン受容の新たな系譜に光を当てることになる。それは、グローバルなラスキン受容の地図上に、日本の受容の一端を位置付ける試みでもある。研究者:広島市現代美術館学芸員、 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程本研究の大きな目的は、ミニマル・アートにおける画商・コレクターが果たした役割と、作家が1960年代以降著しく拡大したマーケットといかに直面し、態度表明していったかを明らかにすることで、作家の作品制作のあり方や動向それ自体が変貌していく過程を活写し、従来の発展史の更新を試みることにある。パトロネージを出資者からの一方的な支配の形式として捉えるのではなく、作家が画商やコレクターと協働あるいは対立しながら、商業的な成功と批評家の称賛を得て美術潮流を形作っていくその様相を詳らかにしたい。―94―鵜尾佳奈
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