鹿島美術研究 年報第37号
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後陽成天皇とその周辺の芸術活動に関する基礎的調査・研究平明さを挙げることができるが、従来の日本美術の枠組みの中で行われた研究では、こうした特徴は当たり前のように考えられ、中国絵画のそれと比較する研究はほぼみられない。しかし、前述したように、同じく馬遠、夏珪のようないわゆる合理的、深奥的な空間表現を特徴とする院体画の作品をルーツとする室町時代から江戸時代前半に至る狩野派の山水画と明代中期までの浙派の山水画においては、それぞれの展開を経ながらも、同じく平面的という視覚的効果を表出している。はたして両者におけるそのような特質を異質なものと主張すべきであろうか。それを検討するには、図様、筆法などの継承や影響関係の特定を行うよりも、モティーフの配置や描かれる角度などの空間表現のあり方を考察することに重点を置いてみる。こうした研究を通して、狩野派と浙派との関係を新たな視点から明らかにできると考えている。研究者:慶應ミュージアム・コモンズ臨時職員本研究は、後陽成天皇(1571~1617)とその周辺で制作された宮廷美術について、現存作例や記録資料を手がかりに、その全貌を解明することである。後陽成は、政局転換期の激動の時代を生きた人物である。四十七年間の人生は、豊臣秀吉と徳川家康という二人の天下人によって左右されたといえよう。まずは秀吉が全国を平定し、また朝廷を保護したために公家社会が安定をみせた。この天正年間後半には、秀吉の権威を天下に知らしめた聚楽第行幸や、後陽成のための御所造営が実施されている。秀吉が朝廷に接近し、いわば良好な関係を築いたことで、後陽成を中心とする禁裏ネットワークが形成されていった。しかしながら、秀吉が没して家康が全国統一を果たすと、朝廷は江戸幕府によって厳しい干渉を受けるようになる。慶長にあたるこの時代には、後陽成は文芸活動へ傾倒し、連歌会の催行や古典の講釈を頻繁におこなっている。これら雅会に参加した人物たちは、秀吉政権時代から交流を持ち続けてきた文化人であった。その一例として、弟の智仁親王(1579~1629)や公家の近衛信尹(1565~1614)、秀吉のブレーンとして著名な西笑承兌(1548~1607)が挙げられる。ここで注目すべきは、彼らが詩作に興じるだけでなく、美術品の制作へも関与したと推測で―104―小松百華

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