ウィレム・デ・クーニングの1960年代作品における女性像に関する研究きうる点である。土佐光吉筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館)には、後陽成のほか、智仁、信尹らが詞書を揮毫しており、本作品の注文主も後陽成周辺が想定されてきた(武田恒夫「土佐光吉と細画―京都国立博物館源氏物語図帖をめぐって―」『国華』996号、1976年12月)。また、海北友松(1533~1615)は後陽成から琵琶の絵付けを依頼され(「後陽成天皇女房奉書(中院通勝宛)」および「中院通勝書状(海北友松宛)」)、さらに智仁へ屛風制作をした記録が残る(『智仁親王日記』)など、宮廷サロンとの接点は枚挙にいとまがない。以上の事例は、複雑に絡み合う禁裏ネットワークの上に成り立っていると思われるものの、後陽成サロンと作品制作の相関についての詳細な検討はいまだおこなわれていない。本研究ではサロンの役割や構成員、活動の内容を明らかにし、後述する寛永文化に先行した後陽成主導の文化活動について考察していきたい。サロンの活動を紐解くためには、天正から慶長にかけての日記を中心とした資料の精読が不可欠であると考えている。『御湯殿上日記』をはじめとする記録類からは、宮中の人間関係を読み取るなど、情報の収集につとめたい。これに加え、先に挙げたような、サロン関係者が関与した絵画作品を中心に実見調査をすすめる。このほか、後陽成は数点の絵画、例えば「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館)や「竹に雀図」(陽明文庫)、また多くの書跡を遺しており、これらの作例にあたることで天皇自身の美意識についても検討する。ところで、後陽成の旺盛な文化活動は、次世代の宮廷文化へ影響を与えている。後陽成の第三皇子で次期天皇の後水尾天皇(1596~1680)は、禁裏を中心とした寛永文化を花開かせたが、それは先代の後陽成による文化的基盤の形成が一つの要因となったようである(「後水尾天皇時代の宮廷絵画」『天皇の美術史』第四巻、吉川弘文館、2017年10月、160頁)。後陽成サロンの実態を明確化することは、後世の宮廷文化を考察するうえでも有効な一つの指標となりうるであろう。研究者:神戸大学大学院人文学研究科博士課程後期課程本研究は、ウィレム・デ・クーニングが1964-69年のあいだに制作した作品中の女性像を主たる考察対象とし、作品受容における否定的評価が同時代の大衆文化の中で―105―田儀佑介
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