ある。曽山幸彦は「美術会」設立の中心となった一人であり、同会が設立したともいわれる「画学専門美術学校」の閉校後は生徒を引き継いで画塾(後の「大幸館」)を開き、岡田三郎助などの優れた人材を輩出した。曽山の画業を追い、彼が教えた画学専門美術学校と画塾、工科大学校での具体的な教育内容をたどることで、工部美術学校の生徒たちが受容し、継承しようとした西洋の絵画技法の在り方を見出すことができると考えている。これは、工部美術学校から大幸館へ、そしてその門下生である岡田三郎助からさらには東京美術学校の生徒たちへと継承される、「西洋画」の在り方をも明らかにすることになるだろう。この考察には、「美術会」の一員である藤田文蔵が設立した「彫刻専門美術学校」を含めると、「美術会」が工部美術学校を継承する学校の設立を目指していたことがより明確になると思われる。これらの美術学校の詳細を考察することで、工部美術学校での専門教育が次世代に受け継がれていく一形態を示すことができる。また、曽山幸彦と共に「美術会」および画学専門美術学校を運営していた松室重剛と堀江正章も調査の対象とする。明治25年(1892)に曽山が没した後の画塾・大幸館は松室と堀江が引き継いだため、曽山とこの二人の活動は切り離せないものであり、教育内容の幅の広がりも考えられてくる。曽山とともに彼らの画業を追うことで、「美術会」の画家たちが目指した「美術」というものの実態を浮かび上がらせることができるのではないだろうか。明治22年(1889)に発足した明治美術会には、工部美術学校の初期に在籍していた浅井忠らと共に、曽山幸彦も発起人に名を連ね、委員に選出された。明治美術会の目指していた活動内容からは、当時の西洋美術を担う者たちの理想や在り方が見えてくる。そしてここには「美術会規則書」との共通点と相違点とが見られ、これらを考察することは、西洋美術をとりまく時代の変化を見出していくことにもなるだろう。以上のように本研究は、これまで顧みられることのなかった「美術会」の活動について、曽山幸彦を中心に詳細に追うことによって、工部美術学校廃校から明治美術会発足へと至る間に西洋美術の担い手たちが抱いた理想と足跡とを明らかにし、明治初期の美術史をより明確化していくものである。―110―
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