鹿島美術研究 年報第37号
126/154

鳥山石燕の画業について研究者:太田記念美術館主幹学芸員本調査研究は、江戸中期の狩野派の画人・鳥山石燕(1711/12~1788)の画業をできる限り解明することを目的とする。狩野派は日本絵画史における最大の画派であり、江戸時代中・後期には浮世絵師も多くその門を叩いた。なかでも石燕は、歌麿を門人に擁したことなどから、浮世絵史において重要な画人と認識されているものの、その画風について検討されたことはほとんどないため、浮世絵師たちに対して具体的にどういった影響を与えたのかについては不明瞭な点も多い。そこで本研究では、まず石燕が手がけた肉筆画・版本・歳旦帖のデータを網羅的に収集分析し、画風変遷を分析する。なおその一端を示すと、画業初期、元文(1736-40)末頃と推定される「三味線の音締をする若衆図」(フリーア美術館)では当時の鳥居派、東柳窓燕志撰の安永7年(1777)『歳旦帖』(早稲田大学図書館)では北尾派風、天明5年(1785)頃「桜下花魁図」(シカゴ美術館)では勝川春章の影響を思わせる作画が見られ、浮世絵界で主流となった画風への接近が、その画業の初期から晩年にわたって行われたことがうかがわれる。同時に石燕は狩野派の謹直な画風を示す『石燕画譜』(安永3年[1774])、「翁図」(安永9年[1780]頃、メトロポリタン美術館)も手がけており、狩野派と浮世絵、両者の画技を有した画人であったと考えられる。また手がけた版本類の序文を記す人物のなかには儒者や俳人がおり、彼らとの交流の検証は、石燕が身をおいた文化的ネットワークを明確にする手がかりとなると考えられる。以上の作業を通し、石燕の美術史における位置づけを試みるが、これはまた石燕が狩野派においては末端に近い画人とはいえ、狩野派と浮世絵、異なる画派が及ぼしあった影響を検討する手がかりとなると考えられる。同時に、喜多川歌麿が豊麗な美人画を描いた一方で、石燕が跋文を寄せる『画本虫撰』で精緻な花鳥画を描き得た背景を考察する、歌麿研究の一助ともなり得るだろう。なお筆者はこれまで、浮世絵師の他派学習について歌川豊広と歌川広重の作画から検討する機会を得た。豊広はとくに墨摺絵において、橘守国や英派を中心に狩野派系の絵手本を広く参照しており、また広重は最初期には豊広のこうした傾向を一部継承しながらも、四条派や南画(文人画)に属する画人の挿絵本へ視野を広げ、独自の画―111―赤木美智

元のページ  ../index.html#126

このブックを見る