平安中期における「比叡山仏所」と南都仏師の関係風を確立していく様相がうかがわれた。時代の変化による美意識の変容にともない、浮世絵師たちが摂取する他派やその内容もまた変化することが理解される。一方的な学習であれ、浮世絵師がいかに他派を摂取したかを考察することは浮世絵史を構築していく上で重要と考えるが、とりわけ一時代を築いた歌麿と直接的な師弟関係を結んだ石燕の画業の解明は、浮世絵史のみならず広く近世絵画史の観点からも意義ある作業と言える。研究者:京都国立博物館アソシエイトフェロー平安時代中期の造像工房の一部については、すでに諸先学による成果によりその実態が明らかになりつつある。当代に造像された作例は、担当した仏師の特徴が色濃くあらわれているものが多く、彫り口や彫癖などの様式的分析によって作品を大別することができる。文献史料が多くはない当代において、これは非常に重要な研究手法である。本研究では筆者が「比叡山仏所」で制作されたと考える作例をより詳細に検討して、明確に位置付けることを目指す。筆者は当代の仏教彫刻の様式論的な分析を進めていくうちに、当代に造像された尊像の中に、作風上酷似した特徴をそなえる尊像を幾例か見出すことができた。以下に三例を掲げる。① 滋賀・石山寺木造如意輪観音半跏像② 滋賀・浄土寺木造天部形立像③ 奈良・法隆寺大講堂木造薬師三尊像のうち両脇侍坐像これらの尊像はいずれも平安時代中期(十世紀―十一世紀初頭、③法隆寺大講堂両脇侍坐像は正暦元(990)年頃)に造像されたと考えられている。構造は一木造を基調とし、各所を矧ぐ形式で造られる。驚くほどにこれら四像の作風は、細部に至るまで酷似している。類似点の主要なものをいくつかあげると、顔面のつくり、耳・鬢髪の造形、均整のとれた体躯の三点である。これらの作風上の酷似は、造像を担当した仏師集団やそこに携わった僧侶が非常に近い関係にあったことを物語っている。また、伝来場所を地図上で確認すると、瀬田川から比較的近い距離にある寺院に伝来していることが注目される。多少の移座が行われているとしても、おおよそこの地域に―112―伊藤旭人
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