写真家・後藤敬一郎の活動についての研究伝わった尊像とみてよい。なかでも筆者が注目したいのは、③の奈良・法隆寺大講堂木造薬師三尊像の両脇侍坐像である。法隆寺大講堂は『法隆寺別当次第』などによると、延長3(925)年に焼失し正暦元(990)年に再建された。現在の法隆寺大講堂に安置される薬師三尊像および四天王立像は、この再建期に造像されたものと比定されている。この正暦元年の再建にあたり注目すべきは、『聖徳太子伝私記』や『法隆寺白拍子記』では、京都・普明寺の堂宇を移築したと伝えていることである。移築については建築学の方面から否定されているが、なにかしらの事情があったからこそ、このような記録がなされたと考えるべきである。太田博太郎氏は、延長3年に焼失した大講堂の代わりとして上御堂が講堂の役割を兼ねていたことから、史料がつくられた際に誤解が生じたのではないかと指摘された。普明寺は醍醐寺を開いた聖宝が示寂した寺院であり、聖宝の弟子や彼に関係する人物の関与によって「移築」された可能性も充分に考えられる。上に掲げたように、滋賀と奈良の寺院に、作風が極めて近い尊像つまり同一の仏師集団が造像したと考えられる像が伝来したことについては、彫刻史の立場から解明すべき問題である。本研究においては、その問題を一定程度まで解明できると考えている。当代は、比叡山延暦寺や奈良・東大寺、興福寺などの仏教勢力が入り乱れており、その影響は仏像彫刻においてもあらわれている。それらの勢力下で制作された仏像が、同時期に活躍していた康尚やその子とされる定朝らの作風とは一線を画していることは明らかである。先行研究の多くは、造像活動を都道府県やひとつの地域内で検討することが多かった。無論、それは必要なことであり、これに異を唱えるわけではない。しかし、本研究で採用する視角で今一度仏師や僧侶の動向を探ることによって、これまで明らかとなっていなかった仏師集団に光を当てることができると考えている。研究者:愛知県美術館主任(学芸員)副田一穂写真家・後藤敬一郎(1918-2004)の遺した資料を対象とする本調査研究は、大きく分けて二つの目的を持つ。一つは、「主観主義写真」の写真史上の意義の再考であ―113―
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