る。主観主義写真とは、1951年にドイツの写真家オットー・シュタイネルトが企画した展覧会「Subjective Photography」と、翌年刊行された同名の写真集を通じて、世界中に広がった概念である。マン・レイ、モホイ=ナジなどに代表されるその写真のあり方は、現実世界の忠実な再現よりも、写真家の主観による表現を重視し、新興写真や造型写真、ルポルタージュ写真にいたるまで、戦前主流であった写真表現の成果を引き継ごうとするものであった。この動きは日本でも1954年に紹介され、2年後の1956年には瀧口修造、阿部展也、北代省三、そして後藤を含む40名が「日本主観主義写真連盟」を結成、写真誌『サンケイカメラ』の主催により「国際主観主義写真」展を開催するなど、当時の写真界を席巻していたリアリズム写真運動に対抗するものとして大きな反響を呼んだものの、50年代末には運動としての体裁を失い、その探求は写真家個々の歩みのなかへと霧散したとされる。太平洋戦争前夜に造型写真の道を歩み始めた後藤は、戦時下の中断を経て、1947年に服部義文、高田皆義、山本悍右と写真家集団VIVI社(のちに石塚巖、田島二男が参加)を結成するなど、戦後名古屋を拠点とするその活動は、リアリズム写真全盛の写真界において異彩を放っている。しかし、VIVI社の活動を含めて後藤の主観主義時代の作品の全容はいまだ明らかになっていない。本調査研究が対象とする資料のなかには、戦中期を含め多数の未発表写真やネガが含まれており、これらを整理することにより、主観主義写真を一過性の流行や戦前への単なるノスタルジーと切って捨てるのではなく、戦前からの連続性や展開、そしてその後の写真表現への豊かな発展性を示すことができるだろう。もう一つの目的は、戦後名古屋における後藤の存在が、写真界のみならず同地のアートシーン全体に対して有していた影響力の大きさを、地域美術史の観点から明らかにすることである。戦前名古屋の美術界の中心であった鶴舞公園美術館は、陸軍接収ののち1942年に解体され、空襲によって大きな被害を受けた終戦直後の名古屋市街地には、作品発表の場がほとんど残されていなかった。そのような状況下で、1948年に老舗菓子店「青柳ういろう」の4代目社長に就任した後藤は、1952年には名古屋・広小路にあった店舗の壁面を利用して「青柳ギャラリー」を開設、地元の著名な美術家らと連携して、数々の展覧会を主催している。また翌1953年には、彫刻家の野水信、画家の石黒二郎、書家の萩原冬珉、板画家のサブリ・テツによるジャンル越境的なグループ・朱泉会(1953-1985、後藤は1971年に退会)を結成、先鋭的な美術の活動の―114―
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