(注)研究者の課題、所属、職名は選考時のものです。②2019年助成金贈呈式2019年助成金贈呈式は、第26回鹿島美術財団賞授賞式に引き続いて行われ、選考委卿フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコロミーニ(後の教皇ピウス3世)の保護を受けていたベルナルディーノ・ピントゥリッキオの影響を指摘し、それに基づいて礼拝堂装飾の歴史的位置づけを明らかにしようとしたものである。そのために森氏は、まず礼拝堂下部の腰壁装飾に着目し、方形と小円形を組み合わせた「詩人像」がその形式と配置および内容において上部ルネッタと密接に関連している点でピントゥリッキオのペニテンツィエーリ宮殿の装飾壁画を受け継いでいることを指摘し、またルネッタ真下のメトーペ部分に描かれたネレイデスやトリトンの古代風図像が、同じくペニテンツィエーリ宮殿の天井装飾の図像と類似していること、さらにルネッタ祭壇壁の枠線がピントゥリッキオによるヴァティカン「ボルジアの間」のグロテスク紋様と酷似し、また腰壁装飾やフリーズのグロテスク紋様がサンタ・マリア・ディ・フッシ祭壇画の同種の紋様と似ていることによって、ピントゥリッキオからシニョレッリにつながる図像の系譜を明らかにした。それと同時に、礼拝堂のプログラム策定に大きな役割を果たしたオルヴィエートの大助祭アントニオ・デリ・アルベリが、またピッコロミーニの秘書でもあった事実に基づき、礼拝堂壁画制作当初、シニョレッリがアルベリの邸宅に住んでいた事実を突きとめ、アルベリ、ピッコロミーニを通じてシニョレッリをピントゥリッキオと結びつける人間関係も明らかにしてみせた。その論証過程は充分に説得的であり、新知見を提示したものとして高く評価される。なお今後、この時代に流行したグロテスク紋様について、ローマのドムス・アウレア以外の源泉の可能性についての探究を期待したい。優秀者を得た亀田晃輔の「1880年代におけるクロード・モネと美術市場について」は、画商の活動が重要性を増す1880年代、モネが批評家ミルボーの協力を得てジョルジュ・プティ画廊の国際展に参画し、モネ自身やルノワール、ピサロなどの社会的認知と受容の歴史的過程を明らかにしたもので、その大胆で新鮮な視点による成果は高く評価される。―19―(文責:高階秀爾)
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