亀田氏本発表では、書簡の分析を通じて、モネとプティやミルボーとの関係を明確化し、モネが国際展へ出品した経緯、またモネやミルボーが国際展で果たした役割を明らかにしつつ、ミルボーの批評文を考察する。アカデミー美術を痛烈に批判する批評態度を持つミルボーは、モネを「当代一流の風景画家」として位置づけ、実際、「連作」の原型となる《エトルタ》、《チューリップ畑(オランダ)》などの革新的な風景画をモネは発表する。他方、国際展の出品者の選定を行うなど運営をも担うようになったモネとミルボーは、86年の国際展には、ロダンとルノワールを、87年には、両者に加えピサロ、シスレー、モリゾ、ホイッスラーをも招聘し、今や瓦解した印象派展の様相を帯びた展覧会にする。そこでモネは《ベル=イル島》、ルノワールはアングル様式の《大水浴図》、ピサロは点描主義の《りんご採り》といった新しい試みの作品を展示した。モネが再び印象派の画家たちを集結させたのは、おそらく話題を呼ぶプティ画廊の国際展において、新たな試みの作品を通じて、虐げられてきた印象主義が変革したことを提示することが目的だったのだろう。以上のように、モネの評価形成が、国際展への参加やミルボーとの共闘と不可分でせていったいわゆる「画商=批評家システム」の作用も見逃すべきではない。モネはいかにして画家としての地位を獲得したのか。この問いに答えるためには、モネが参加した展覧会に関する分析が不可欠である。なぜなら展覧会は、モネの出品動向や画商との関係、さらに美術批評といった「画商=批評家システム」に関わる情報が一挙に集まる結節点と見なせるからである。そこで本発表では、「連作」を発表する以前の1880年代を、モネの評価形成における重要な時期と考え、中でも1885-87年にモネが参加したジョルジュ・プティ画廊「国際絵画展」を分析の対象とする。この展覧会への参加は、事実上、画商の中で印象派最大の擁護者であったデュラン=リュエルがアメリカの美術市場へ進出したことも相まって、モネにとっては、パリで自己の作品を発表していくうえで欠かすことのできないものだった。さらに、モネは1884年から彼の最大の擁護者の一人である美術批評家オクターヴ・ミルボーと共闘関係になり、ミルボーは国際展の機会に、モネを賞賛する批評を世に提示していく。すなわちミルボーという強固な後ろ盾を利用した戦略的な企てが国際展への参加だったのである。―22―
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