3.北部九州における神仏習合造像をめぐる研究―平安時代前期を中心に―福岡市美術館学芸員宮田太樹宮田氏あったことを示す。以上から、浮嶽神社の木彫群が観世音寺講師によって推進された神仏習合造像の一例であることが確認できたが、本木彫群をめぐっては作風や技法構造から制作時期や工人の系譜は近しいとされながらも、各像の造形には違いがあることも指摘されてきた。大きくは、①如来立像と②如来坐像、僧形立像に分けることができ、①は通常の仏像と大きく異ならないのに対し、②は眦を切り上げた威相を示すことをはじめ、通常とは異なる表現が随所に認められるが、こうした違いを説明する上でも神仏習合の視点は有効と考えられる。というのも、神仏習合にはいくつかの発展段階があり、第一段階として仏像と全く変わらない姿のものを神の像とみなし、続く第二段階として、儀軌に則った仏像ではなく、異種の仏像を複合させる段階があったとされている福岡・佐賀の県境をなす脊振山地の西端、浮嶽(805m)に所在する浮嶽神社には、その制作が平安時代前期に遡る3躯の木彫像(如来立像、如来坐像、僧形立像)が伝来している。本研究では、これら木彫像の制作背景を考察することで、当時、北部九州でおこなわれた神仏習合造像の様相を明らかにすることを試みる。浮嶽神社の木彫群をめぐっては、同神社からほど近い鏡神社の神宮寺である弥勒知識寺の復興事業(承和2年〈835〉)と関わる可能性が先学によって指摘されている。この事業は、当時、北部九州の造寺造仏に絶大な影響力を持っていた観世音寺講師によって主導されたものだが、「遊霊を救う」ために実施されたことが特に注目される。遊霊とは、奈良時代に叛乱を起こし、死後怨霊として畏れられた藤原広嗣のことだが、復興後ほどなくして善神へと性格を変えたようである。それは、承和の遣唐使の一員であった円仁が、八幡神や神功皇后といった国家神とともに「松浦少弐霊」すなわち、藤原広嗣の霊に対して経典転読をおこなっている事実から確かめることができる。広嗣の霊の善神化は、怨霊が仏力によって救済されるという神仏習合の論理に基づいた造寺造仏の成果と考えられ、観世音寺講師の活動の一端をうかがうことができる。―23―
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