4.谷文晁を中心とした関東南画(文人画)における中国絵画学習の研究―清代福建様式の影響を中心に―横尾氏りょくからである。浮嶽神社木彫群の造形の違いは、まさにこうした発展段階の違いと対応している可能性がある。浮嶽神社木彫群が制作された9世紀前半は、観世音寺講師が大宰府管内諸国全域へとその影響力を急速に拡大させた時期にあたる。広嗣の善神化に象徴される神仏習合思想の高まりはその一例であるが、観世音寺講師が特に重要視したのが八幡神であった。おりしも、皇位継承の正統性を保証する皇祖神として八幡神が朝廷周辺でその存在感を高めており、観世音寺はこうした中央の動向をも意識しながら、神仏習合造像を推進したのである。名古屋市博物館学芸員横尾拓真(蜀最初に谷文晁「青緑山水図(蜀桟道図)」(東京富士美術館蔵)の原画となる中国絵 款「蜀桟道図」は、東京富画の推測をおこなう。現在、橋本コレクション蔵の趙士美術館本と図様が近似し、原画と目される作例である。しかし、東京富士美術館本の類例である谷文晁「蜀桟道図」双幅(個人蔵)の箱書きには、原画の作者として馬さんすいさんどうしょくきんげんほくしゅう江戸時代後期に活躍した谷―24―たにぶんちょうせっとうちょうじゅん文晁りぱ派元唐欽山水桟道宗が画ず図ず図ば珣「秋冬山水図」あるいは藍(1763~1841)は、関東南画(文人画)の領袖あるいは巨匠と言われることが多い。一方で文晁が描いた山水画は、文人画論で評価の系譜に概ね位置づけられの対象とはならなかった浙ている。ただし、具体例に基づく中国絵画との影響関係瑛の議論は、高桐院蔵の李作品の影響など限定的である。本発表では、類例が多く、文晁山水画の一典型と思われる東京富士美術館蔵「青)」(文政五年〈1822〉)を取り上げ、その原画を清代に活動し緑の作品であると推測し、文晁に対する清代福建様式のた福建地方の職業画家・馬影響、また文晁自身の創意工夫を検討していきたい。具体例に基づいた考察をするこ」という言葉、「南北合法」「南北一致」といとで、文人画論を出典とする「北った文晁派の人々が自称した言葉による、文晁作品の漠然とした理解の克服を目指すものである。らんえいせい
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