鹿島美術研究 年報第37号
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5.オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂装飾の制作背景ず図津問源日暦堂堂慊崎檗結ルカ・シニョレッリ(Luca Signorelli c.1450-1523年)の名を不朽のものにしたオルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂(1499-1504年;以下新礼拝堂)が、大聖堂造営局から画家に委託された、公的な事業であったことは注目されてしかるべきだろう。―腰壁装飾に見られるピントゥリッキオ工房との関連から―元欽の名前が記される。馬元欽の伝存作例「桃」八幅対(橋本コレクション)の院体画様式は、趙珣 款「蜀桟道図」に通ずるものであり、趙珣 款「蜀桟道図」が古風な福建様式の作例と指摘される点と併せて、東京富士美術館本の原画が趙珣 款「蜀桟道図」と相似た馬元欽の款を有する「蜀桟道図」であったと推測する。そして趙珣 款「蜀桟道図」と東京富士美術館本との比較により、原画の受容と改変、個性創出の過程について考察したい。続いて、松東京富士美術館本の図様は、文晁自身の類作に留まらず、文晁の弟子さらには一門を超えて流布している。最後に、この図様の影響力を確認しつつ、同様に清代の福建地方の山水画様式に淵源を持つと思われる文晁一門の作品を追加しながら、関東南画(文人画)全体における清代福建様式の浸透の様子を概観したい。九州大学大学院人文科学府博士後期課程、福岡県文化振興課学芸員森まつざきこうどう(1771~1844)『慊森氏ルネッタのアンチ・キリストの物語に着目し、サヴォナローラによるフィレンツェでの神聖政治の風刺と解釈するシャステルの論考によって新礼拝堂への関心は高まり、先行研究上特に、「最後の審判」に際し生じる出来事を描いた連作のルネッタの―25―こうどうにちれきばくおうとうげんもんしん』の記事により、東京富士美術館本の原画となった馬元欽画が薩摩藩所蔵であり、琉球国を通じてもたらされた可能性があ美術に顕著であるが、江戸絵画の様式にることを指摘する。福建地方の絵画は、黄大きな影響を与えたことが明らかにされてきた。本発表では、職業画家による山水画の谷文晁に対する影響という新たな側面から、影響の大きさと多様性を提起したい。また、長崎とは異なる、琉球国から薩摩藩という流入経路の重要性も確認する。

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