鹿島美術研究 年報第37号
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分析を中心に、その図像プログラムに関心が寄せられてきた。しかしながら90年代の研究を通して、新礼拝堂研究はよりローカルな視点からこれを解釈するよう、大きく転向することになる。この時期、関連史料を緻密に調査したマクレラン、オルヴィエートと当時の教皇庁の動向、ローマの人文主義・終末論的文化との関係から本礼拝堂を解きなおしたリースらの研究が台頭し、また1996年には新礼拝堂の修復完了を記念して、新史料や科学的調査の報告を含んだ論集が刊行された。こうした流れの中で、事業における助言者の特定や、事業背景における教皇庁の動向との関係がより議論されるにいたったのである。オルヴィエート大聖堂は、近郊のボルセーナでのミサの際に血を流した聖体を包んだ聖体布を納めるために建立され、これを納めたコルポラーレ礼拝堂の正面に相対する形で、本礼拝堂が遅れて建立された。故に当初「新礼拝堂」と呼ばれていたのである。宗教改革前夜、いわば聖体の化体変化を証明する、ローマ教会にとって重要な聖遺物を持つ都市の大聖堂に新礼拝堂は位置していたのだ。よってオルヴィエートと教皇庁との関係から新礼拝堂を解釈する視座は正鵠を射ており、本発表もこれに倣うこととする。とりわけ先行研究においては言及の少ない、礼拝堂下部の腰壁の様式的分析をその主眼とする。本礼拝堂の腰壁には古代風の建築様式が騙し絵的に描かれ、さらに当時発掘された皇帝ネロの宮殿ドムス・アウレアから派生した、グロテスク装飾で飾られている。しかしこの装飾の流行が背景にあったとはいえ、何故礼拝堂という聖域において、過剰に異教的な要素が、多くの部分を占めることができたのだろうか。本発表は本礼拝堂の腰壁において、シニョレッリと同じウンブリア派のピントゥリッキオによるローマにおける古代風装飾が導入されていることを指摘することで、オルヴィエートと教皇庁の関係のみならず、新礼拝堂の画家工房側、委嘱主側双方に関し、新しい視座を拓こうとするものである。―26―

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