鹿島美術研究 年報第37号
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⑦近代中国の女子洋画教育に関する基礎的研究―関紫蘭と日本洋画壇との関わり―【意義】1920年から40年代初めにかけて、関紫蘭は一貫して表現主義的画風でもって中国服や和服、洋服をまとった若い女性像を描き続けた。時を同じくして、日本洋画壇でも女性像に対する注目が高まっており、その背景には、前近代の文人趣味のもとに描かれた美人画を脱却し、近代国家にふさわしい新しい理想の女性像を生み出すという共有された目標があった。和服や洋服、そして中国服をまとった女性像が東京美術学校教授や在野の洋画家によって盛んに描かれていた1920年代後半に、関紫蘭は日と文献の史料をも視野に入れ、四日市や和泉市など地方都市へも足を運ぶことが予想される。調査予定地は現段階で十数か所に上っており、その点においても、短期間で日本に滞在しながらの調査の実施が望ましいと言える。なお、現時点、本研究の構想は以下の通りである。すなわち、瀧精一の中国絵画論リストと資料集の作成を終えた後に必要となるのは、瀧が『國華』において中国絵画を紹介・解説したことが、両大戦間期および戦後にかけて日本と欧米の主要な博物館や個人蒐集家の中国絵画コレクションの形成にいかなる影響を与えたのかを分析する報告書や論文を執筆することである。特に瀧が「唐宋元明名画展覧会」と「宋元明清名画展覧会」の開催前後において発表した北宋、元末四大家および清初の「四王」などの山水画に関する論説を中心に、1900年以後に新たに日本に将来されたこれら新しいタイプの中国絵画が、視覚的あるいは文献的に大正時代の日本の南画復興運動に知見を与えたことなどを考察する。そして最後は、1920年代初期から始まった外務省の対支文化事業の一環として設立された(新)東方文化学院において瀧が果たした貢献を具体的に解明したい。瀧精一は20世紀初頭から戦間期にかけて、日本の美術史界ないし国際美術史界において非常に重要な学者であり、これまで彼の業績が全般に論じられたことがあまりなかった。筆者の新しい調査研究プロジェクトは、博士論文をもとにした著書と同じく、近代日中美術交流の全貌を明らかにするのにはきわめて重要な意義をもつと確信する。研究者:九州大学大学院人文科学府博士後期課程―37―武梦茹

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