鹿島美術研究 年報第37号
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本に留学した。この間に、関紫蘭は官展や二科展で日本人洋画家による女性像の作品を実見する機会があったと思われる。先行研究では、日本人洋画家によって描かれた中国服の女性像には、中国趣味や帝国主義的ナショナリズムが反映されていたことが指摘されている。しかし、日本人洋画家による女性像が、日本に留学した中国人画家によってどのように受容されたのかについては十分に考察されていない。こうした現状を踏まえ、東京美術学校で学んだ丁衍鏞が日本人画家の描いた女性像をどのように受容し、その丁衍鏞の描く女性像をさらに関紫蘭がどのように摂取したのか。また中川紀元の女性像を参照しつつ、関紫蘭が日本人洋画家とは異なる独自の女性像をいかに創造しえたのかを、作品に基づいて具体的に明らかにする点に本研究の意義がある。【価値】大正・昭和期の日本で制作された女性像は、男性洋画家が女性モデルを雇い、或いは知人・家族の女性をモデルに制作されたものが多く、これまでの研究もそのような男性洋画家による女性像を対象としたものが多かった。しかし、本研究では、男性洋画家による女性像を女性洋画家がどのように受容したのかというジェンダー的視点を取り入れることによって、女性像が内包するより複雑な意味を明らかにすることができる。本研究は、中川紀元ら日本人洋画家の制作のためのモデルを務めることもあった関紫蘭が制作した女性像を研究対象としている点で、日本と中国という東アジア内で女性像がどのように伝播したのかという問題のみならず、描かれる客体であり描く主体でもあった関紫蘭の制作した女性像に男性画家とは異なるいかなる固有性があったのかを明らかにしようとしている点で従来の研究とは異なる価値がみとめられる。【構想】筆者は、関紫蘭が神州女学校と中華藝術大学そして日本の洋画家から受けた美術教育について継続的に研究してきた。本研究によって、関紫蘭と中川紀元と丁衍鏞の影響関係、そして関紫蘭の女性像の独自性を明らかにし、博士論文『関紫蘭:中華民国における女性洋画家の誕生』としてまとめることを計画している。博士論文は、①関紫蘭が神州女学校で陳抱一からどのような美術教育を受けたのか②中華藝術大学で丁衍鏞からどのような洋画教育を受けたのか③日本留学をきっかけに中川紀元と有島生馬からどのような指導を受けたのか④関紫蘭の描く女性像の日中美術交流史における位置づけという四つの章によって構成される。それぞれの章については、これまで博士課程の研究で既に一定の成果をあげており、今後の研究によって―38―

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