1950年代の《わだつみのこえ》や《嵐の中の母子像》のテーマや造形に見られる特徴は、戦中の大政翼賛会と関わりのある健民彫塑展(1942年)や勤皇烈士顕彰彫塑展(1943年)、軍事援護美術展(1944年)への出品作品と深い関連をもつと筆者は考えている。これらの展覧会は、戦意高揚を目的としたものであったにも関わらず、本郷新の出品作には、他の作品に見られるような直接的な戦功への言及や軍人の称揚の表現はない。この点には、一個人を超えた典型としての兵士像を造形しようとする意志が見て取れ、のちの《わだつみのこえ》を予感させる。近年、公共空間における戦後の彫刻のあり方についてあらためて問題提起がなされている。菊池一雄の《平和の群像》(1951年)など、軍人の彫刻が主に裸体の女性像に取って代わられたことをはじめとして、戦中から1950年代にかけて公共空間の彫刻に託された意味が変容している点が注目される。本研究は、戦前から活動し、後に平和思想と結びついた作品を数多く制作した本郷新の造形展開を明らかにすることで、戦中から1950年代の日本におけるモニュメント志向の様相について、具体的な事例を提供することを目指す。こうした出品作品に加え、同時期の素描を検討することで、二作品の造形が生み出されるまでの展開を追うことを目的の一つとする。戦中と戦後の制作にある断絶だけでなく、その造形的、主題的な連続性にも着目し、本郷新によるモニュメント《わだつみのこえ》および《嵐の中の母子像》の形成過程を跡づけることが目指される。③ 社会主義リアリズム、リアリズム論争に対する彫刻分野における態度の解明本研究の第三の目的は、本郷新が社会主義リアリズムに対してどのような姿勢をとったのかということ、および作品の造形に何らかの影響があるかを検証することである。本郷新は、平和に対する思いと作品制作とを結びつけて自ら語りつつも、その著書『彫刻の美』(1942年)で述べるように、彫刻はあくまでも美を諦めてはならないと考え、思想を直接的に反映するものとしての芸術には懐疑的であった。その一方で、本郷新は戦後初めてソ連に入国した芸術家の一人として、帰国後にその地での芸術をめぐる状況について講演を行うなど、日本国内における社会主義リアリズムの紹介に一定の役割を果たしており、筆者はこの点に注目している。さらに、戦後に「リアリズム論争」として主に絵画におけるリアリズムの捉え方に関する議論が巻き起こった時期には、この論争を意識したものと見られる本郷新の発言が散見される。従来は絵画の領域における問題として捉えられがちであったリアリ―40―
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