「無原罪の宿り」が聖書に根拠をもたず、神学に依拠している以上、図像解釈において神学的考察を避けて通ることはできない。特に、15世紀後半からトリエント公会議(原罪に関する教令、1546年)までに限定すれば、この間に制作された無原罪の宿り図像が神学的意味をもつことは明らかである。筆者は、無原罪の宿り図像は①マリアが単独で描かれる、②エステルに予型されたマリアが「エステル書」の場面をもとに描かれる、③図像に旧約の人物、教父、神学者が議論する形で描かれるという三つの形態的特徴を持つと分析する。作例はいずれも旧約の出来事が予型論的に選択され、図像を注釈する仕組みとして文字テキストが図像に加えられることで、新たな意味が提示される。従って、修道士の構想に応えた画家達が手を染めるまでは適切な表現をいささかも見いだせなかった神学者の言葉がどう表現されているか、それがどのような意図のもとに用いられ、意味内容をもつかについての考察が必要である。本研究は従来の方法論を否定するものではなく、図像解釈に説教テキストや理論に基づいた神学的考察を加えることで、先行研究を補うものである。図像の細部に亘り意味内容の検討を行うことで、新たな表現形態が用いられた意図が具体的に提示される。それにより、「無原罪の宿り」図像研究における神学的解釈の重要性を改めて提示することになる。神学的関心からスコトゥスやアンセルムスの理論をもとに図像を見ると、どの図像をみれば「無原罪の宿り」の受容がわかるのか、見当付けが可能となる。その視点から筆者はクリヴェッリ(図上)とフレディアーニ(図下)の作例を考察対象として選定した。教理の特殊性を考慮すれば、無原罪の宿り図像研究には、美術史学に留まらない多角的視点を用いた考察が必要である。それにより、美術史学的方法論ではアポリアに陥っていた問題に解決の糸口が与えられる。教理史、神学のみならず、説教や贖宥の問題に派生させながらの多岐にわたる考察も、教皇を軸に置くことで論点を定め、体系的に整理することが可能となる。学問の壁を超えた図像的、理論的アプローチ双方向からの研究は、「無原罪の宿り」の全体的な理解のみならず、美術史学におけるマリア図像研究全体に対して、また、―43―
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