鹿島美術研究 年報第37号
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⑫高田敬輔の仏画を中心とした研究研究者:石川県立美術館学芸主任高田敬輔(1674~1755)は、在世中、上方において最も名の知れた絵師のひとりであった。その門下からは月岡雪鼎や島崎雲圃が出、没後およそ五十年の文化元年(1804)には、子弟らにより『敬輔画譜』が編まれている。また、白井華陽『画乗要略』(天保三年(1832)刊)には「壮年京摂に遊び、最も名を知らる。呉俊明と一時の領袖為り」とあり、当時の画名の高さがうかがわれる。辻惟雄氏は『日本美術全集』(小学館、2013年)のなかで、敬輔について「京の町衆の絵画教師役を務めた画家」と述べる。そのような敬輔の画業も、近年は、2005年の「高田敬輔と小泉斐」展(滋賀県立近代美術館)前後まではあまり注目を集めることがなかった。同展によって敬輔の影響の大きさが再認識されたが、その後の具体的な作品研究は未だ充分とはいえない。またその生涯に関しても、京狩野家の狩野永敬の弟子として仁和寺『御記』に初出する元禄四年(1691)から、選択集十六章を絵画化したという正徳三年(1713)まで、その間、約二十年の活動は不明であり、課題は多い。本研究は、敬輔作品の調査を行うことによって、その画業の変遷を具体的に考察することを目的とする。なかでもまずは仏画に注目する。敬輔の画業において、仏画制作は大きな比重を占めていた。上述の『敬輔画譜』に所収される老泉戒如「高田敬輔翁略伝」では、林丘寺宮や承秋門院、仁和寺法親王などの皇室と関連した仏画制作や、小松谷正林寺の慈光和尚、華頂山の義山上人、華厳宗の僧・鳳譚など宗教者との関係が多く述べられている。敬輔自身についても「君仏画に広く経軌を検じ、ことごとくその法に詳らかなるを存ぜしむがごとし」「常に心を西方に棲し坐起するに仏を忘れず。」と記述されており、その仏画制作に対する真摯な姿勢が伝えられている。筆者はこれまでに、「八相涅槃図」(浄光寺蔵)と「天下和順図」(信楽院蔵)について考察を行い、敬輔が仏画制作において、それまでに絵画化されていない経典の文句を絵画化したり、定型表現にとらわれず独自の表現を用いていたことを述べた。そしてそれらは「仏経の微妙の新図を写す」「梵典を丹青の中に寓する」(『敬輔画譜』序)として評価されていた可能性を指摘した。「新図」として評価された敬輔の仏画の新奇性について、調査を通して具体的に明らかにしたい。また、茶の湯の松尾流の流祖、松尾宗二(1677~1752、号・楽只斎)との関係にも―45―中澤菜見子

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