⑬「境界の戦後美術」研究―真喜志勉とロジャー・シモムラを中心に―注目したい。これまで、敬輔と松尾流との関係は、敬輔の子孫に伝わる『系図書』(弘化五年(1848)の奥書あり)の、「又茶事は、松尾を伝うかたわらに、楽の陶器を作ることの工みなりという」という記述のみが知られていた。しかし筆者は、敬輔筆「松尾宗二像」などの作品調査により、敬輔と楽只斎の間に直接の交流があった可能性が高いことを見出した。ほぼ同時代を生き、それぞれ京都と日野、そして京都と名古屋を行き来しながら文化活動を行った二人の関係は、注目に値する。加えて、京都と地方を行き来した制作活動も敬輔の特徴である。敬輔の作品は比較的数多く残っており、その質もまちまちであるが、伝来が確かな作品を中心に調査を行い、地方での活動の様相を追っていきたい。本調査研究を通して、敬輔の仏画制作、茶の湯との関わり、そして地方での制作という三つの面の一端が明らかになるであろう。これらの新たな知見をもって、敬輔の画業を十七~十八世紀の画壇において位置づけなおすことを試みたい。敬輔は晩年、江戸へ赴いた折、「竹に鶏」「福禄寿」「松竹」などの四幅を、将軍吉宗の御覧に入れることが叶った。吉宗は「鶏の書形面白く福禄もかわりたる書形何様雪舟を題として己の発明ある絵」と言ったという(『近江日野町志』所収「敬輔日記抄」)。一世を風靡し、将軍の御覧まで叶った敬輔の作品は、当時においてなぜ評価されたのか。作品を丹念に読み解き、また文献資料を精査して、敬輔作品の新奇性を明らかにするとともに、当時の絵師の評価基準についても考察を加えたい。研究者:神戸大学大学院国際文化学研究科准教授調査研究の意義:「境界」のダイナミクスの解明と理論的貢献沖縄は戦後25年間にわたり米軍に占領され、その間の美術表現は、アメリカはもちろん日本の美術としても論じられにくい状況にあった。その傾向は1972年のいわゆる本土復帰以降も続いている。一方、日系アメリカ人の美術も主流の美術言説には概して含まれず、「収容所で作られた日系人のアート」や「アジア系アメリカ人の美術」という限定された領域の中で論じられてきた。本研究は、「日本」からも「アメリカ」からも疎外され、その境界上に位置づけられてきた作家の再評価を行い、「境界」そのものを生み出すダイナミクスを解明して戦後美術研究に理論的貢献を行う点に最大―46―池上裕子
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