⑭幕末・明治期のイタリア人蚕種商人と横浜における美術について―ポンペーオ・マッツォッキを中心に―研究者:横浜美術館主任学芸員、美術情報センター主任司書横浜は、幕末から明治初期、多くの来日外国人による西洋文物流入の窓口として活況を呈した。初代五姓田芳柳(1827-1892)は、外国人向けに絹地に写真から肖像画を描き、また和装像に写真から頭部のみ外国人肖像を当て嵌めた土産物絵画を制作して、所謂「横浜絵」を創始したとされる。「横浜絵」は、成立における写真と絵画の関係や、絹本着色の従来の作画に西洋画の技法や迫真的表現を取り入れる画家の志向を読み解く上で興味深い対象だが、多くは外国にもたらされ国内の作例が限られる上、ほとんどは款記が無く、制作の経緯が不明である。芳柳門下の平木政次は、その著『明治初期洋画壇回顧』で、外国人が写真から絹地に描く肖像画を喜び、「その外国人は多く伊太利人で商売は蚕の種紙を買入れに、毎年一定の時期に渡来して来た者で、船の出帆迄の日限がありますので描くのにも随分忙しい思ひをした」と述べている。イタリアは19世紀半ば、微粒子病により絹の産業が壊滅的な打撃を受けた。良質な蚕種確保が生き残る唯一の方法であると、蚕種買付商人が中東からインド、中国へ旅した。日本が良質な蚕種産出国と判ると、パスツールによる予防法普及までの20~30年程の間、日本の蚕種の大口購入者となった。現ロンバルディア州ブレシア県コッカリオ市出身のポンペーオ・マッツォッキ(1829-1915)も、蚕種買付に、1864~1880年の間、15回来日した。マッツォッキがイタリアへもたらした文物に、款記から五姓田芳柳作の絹本淡彩のマッツォッキ肖像画と、写真から頭部のみを描きこんだ絹本着色のマッツォッキ夫人和装像の軸が遺されていることが判った。横浜美術館蔵≪外国人男性和装像(仮題)≫≪外国人女性和装像(仮題)≫の作者はこれまでよく判っていなかったが、男性和装像の像主頭部はマッツォッキの肖像画から導かれたとも推察し得る相貌であり、女性和装像は、左右反転ながら、衣装の柄行と取り合わせがマッツォッキ夫人像のそれと酷似している。マッツォッキ夫人像は、「横濱矢内舎柳甫寫」の款記から、芳柳の弟子で横浜の太田町四丁目で横浜絵を描いた矢内楳秀との関連が明確である。―48―八柳サエ
元のページ ../index.html#63