⑮戦間期日本における製菓会社PR誌のグラフィック・デザイン1920年代にかけて、製菓会社のなかには、商品の販売網の整備と拡大を進めるなかで、社内に広告部――近代広告の作り手として、工業学校や工芸学校出身の図案家が結集し「企業内工房」とも呼ばれた――を配置し、企業ブランドとしての広告戦略を推進する企業が現れた。この動きを視覚的に示すものの一つに、製菓会社のPR誌があげられる。マッツォッキ旧蔵品には、このほか複数の絹絵があり、後のラグーザ玉との交流を示す油彩の静物画も含まれ、日本との深い交わりを示す資料群である。中でも絹の肖像画を大切にしていた節があるのは、貧しかった身が日本の蚕種貿易で成功し、幸運をもたらしたことを片時も忘れなかったと伝わる彼にとって、絹絵が絹と自身をつなぐ特別な意味を持っていたからかもしれない。コッカリオ市のマッツォッキ財団は、マッツォッキ旧蔵品の一部を2017年から公開し始めたが、横浜絵を含むコレクションの全貌は明らかではない。マッツォッキ旧蔵の横浜絵は、横浜美術館所蔵作を始め、不明であった横浜絵の制作経緯を明らかにできる可能性がある。その上、マッツォッキ財団側が調査受入に好意的であることが示される今、調査実施の好機と考える。平木の言うように横浜絵発注者にイタリア人蚕種商人が多かったとすれば、イタリアでのマッツォッキ旧蔵品調査は、近代国家確立と軌を一にして国が正統派と位置づけた美術家たちとは異なり、芳柳らが担った‘もう一つの美術史’とも呼ぶべき開港期の横浜における美術の一斑を浮かび上がらせ、イタリアにおける日本趣味と日伊交流に光を当てることができる点で、意義深い。研究者:国際日本文化研究センター特任助教本研究の目的は、戦間期日本における製菓会社PR誌のグラフィック・デザインについて、視覚文化論の立場から考察するものである。具体的には、第一に、これらのPR誌は、誰に向けてどのような目的をもって刊行されたのか、第二に、これらのPR誌は、どのような内容にもとづき、どのようなデザイン(図像・文字)及びレイアウト(構成)がなされているか、を検討する。製菓会社のPR誌について、児童文学や社会学の立場から言及する研究があるが、PR誌というメディアの特性に注目し、そのデザインを歴史的な観点から取り上げる―49―前川志織
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