⑰恩地孝四郎の抽象版画に関する考察―1920年代の装幀デザインとの関係性―おこなうところに、研究意義があるといえる。これらの研究成果は、池大雅の画業全体を眺めるとき、そして明和8年という制作時期を考えるうえでも、大雅研究に必要不可欠な、基礎的研究になることが期待される。なお、大雅の作品群が山形県内に遺存することについては、安孫子東岡とともに伊勢詣の旅に出た寒河江の医師で蕉門美濃派の俳人、山村玄悦の長男で、俳匠であった月巣が、「松尾芭蕉像」(個人蔵)に賛をしていることや、大雅の弟子、福原五岳が大坂の混沌社友と交流して詩作をおこなった酒田出身の医師・曽根原魯卿が病で酒田に戻る際に描き贈った「曽根原魯卿叙別図」(本間美術館蔵)などがあることから、大雅と美濃派、雪門派など蕉門各派の俳諧、大坂の混沌詩社との関わりを手がかりとして分析をおこなえば、そのまとまった遺存の理由も見出されるのではないか、と考えている。研究者:神戸大学大学院国際文化学研究科博士課程後期課程 研究の意義1930年代における恩地の抽象作品の独自性と〈音楽作品による抒情〉制作に際して装幀デザインが果たした役割を考察するためには、作品分析に加え、同時代の文学や音楽等、他ジャンルの芸術と恩地の創作との交流状況を念頭に置いた検証が不可欠となる。桑原規子は『恩地孝四郎研究―版画のモダニズム』(2012年)のなかで、1930年代の恩地と日本の音楽家との接点を分析し、〈音楽作品による抒情〉誕生の直接的なきっかけと、シリーズで追求された綜合芸術論における諸井三郎や山田耕作らの影響を指摘した。こうした先行研究を踏まえつつ、本研究では、恩地の綜合的な創作が先んじて試みられた場として1920年代の装幀デザインを取り上げる。文学的イメージをデザインへ変換する際の手法を対照することで、音楽的イメージを抽象版画として表現する際の具体的な方法について検証する。〈音楽作品による抒情〉および、恩地を含む1920年代の芸術家による装幀デザインの比較・分析を通じて、1920年代から1930年代の日本における他ジャンル間の芸術の視覚的綜合についての理論的分析を行い、戦前日本のデザインおよび抽象画に試みられた表現手法に新たな光を当てる意味において、本研究は意義をもつ。―53―岩間美佳
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