鎌倉幕府成立期の会津における造像に関する研究―新宮熊野神社文殊菩薩騎獅像を中心に―研究者:奈良国立博物館研究員内藤本研究の目的は、福島県喜多方市慶徳町の新宮熊野神社に伝来した文殊菩薩騎獅像(以下、本像)に注目することにより、鎌倉幕府成立期の会津における造像の一端を明らかにすることにある。その手法として、本像の制作年代として推定されている平安時代後期から鎌倉時代初期の菩薩像、特に初期新宮熊野神社と一定の関係があったと思われる鎌倉幕府所縁の作例、並びに東北に残る作例との比較検討を行い、より具体的な制作年代や造像の担い手となった仏師の系統を考察する。また、江戸時代中期成立の『新宮雑葉記』などの諸史料に見える源頼朝(1147-1199)による社領の寄進と文殊菩薩像の下賜に改めて注目し、幕府関係者による造像の関与について提案を試みる。本像は、会津には数少ない正統的な作風を示す作例として知られており、かねてより注目されてきた。『新宮雑葉記』や像内に残されていた元禄年間の修理銘札によれば、建久3年(1192)に頼朝から運慶(生年不詳-1223)作の文殊菩薩像を賜ったといい、これを本像に当てている。運慶作の伝承はともかく、その制作年代に関しては研究者によって平安時代後期から鎌倉時代初期の間で解釈が異なり、近年実施された放射性炭素年代調査でも平安時代中期から末期と幅のある結果が出ており、年代が絞られることはなかった。会津の仏像に関しては、若林繁氏によって長年調査研究が行われてきたが、全国的に注目されるのは勝常寺薬師三尊像をはじめとした平安時代前期の作例に集中しており、鎌倉時代以降の当地における造像は明らかになっていないことが多く、議論される機会も少ない。本研究の意義は、年代観にばらつきのある本像を再考することにより、上述のような状況にある会津の仏像研究の進展に寄与することにある。本像の制作背景に関して注目したいのが、御家人佐原義連(生没年不詳)との関係である。義連は文治5年(1189)の奥州合戦の功によって会津一円を所領としたが、『吾妻鏡』建永2年6月24日条を見ると、義連は紀伊国守護も務めていたことが分かる。紀伊国は言うまでもなく熊野三社の立地する土地である。本像が安置される新宮熊野神社は、源頼義(988-1075)が熊野三社を勧請し、その子義家(1039-1106)が―60―航
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