鹿島美術研究 年報第37号
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雲岡石窟第6窟の独自性についての研究―他地域造像の情報受容と展開―現在の地に移したことに始まるが、頼朝の祖先が創建に関わった会津の熊野神社という存在は義連にとって重要であったと思われ、本像の制作に関与した可能性が浮上する。そこで本研究では、はじめに本像の基礎的調査を行い、それを踏まえて平安時代後期から鎌倉時代初期の菩薩像、特に鎌倉幕府が造像に関与したと考えられる作例と福島を含む東北の作例を調査し、比較検討を行ってより具体的な制作年代を提示する。また、上述の会津を所領した義連の事績について史料から検証することにより、本像の制作背景について新解釈を示す。これにより、不明な点が多い鎌倉時代初期前後の会津における造像を明らかにする手がかりとなり、さらには近年文献史学と考古学の立場から再検討が進んでいる東北における鎌倉幕府の影響について、美術史学の立場から貢献することが考えられる。研究者:成城大学民俗学研究所研究員本研究が雲岡石窟第6窟を対象とする理由は、(1)雲岡石窟中、最も完成度が高い石窟である(2)造像の漢化という中国仏教美術史上の重大な転換点を示し、他地域への強い影響力を持つ重要な石窟であるため、という2点に集約される。本窟の研究によって得られた理解は、北魏時代後期の石窟美術を読み解くうえで重要な意味を持つ。それゆえ第6窟に対する関心は非常に高く、これまでにも多くの研究がおこなわれてきた。その端緒となったのは水野清一・長廣敏雄両氏による『雲岡石窟』(京都大学人文科学研究所、1951~56年)である。同書の詳細な分析によって、第6窟が第7・8、9・10、12窟などから継承あるいは発展させた要素を基礎としていることが知られている。また、像の漢化の背景には孝文帝による漢化政策があり、造形的な源流は南朝に求められる可能性が高いことが楊泓氏(「試論南北朝前期仏像服飾的主要変化」『考古』1963年第6期)によって指摘されている。本研究はこれらを始めとする先行研究を基礎とし、雲岡石窟第6窟独自の周到な空間がいかにして完成されたのか、という新たな観点から本窟の構成要素を見直すことにより、造営に携わった独自性の所在および造窟思想などを理解し、本窟を再評価することを目標とする。雲岡石窟において第6窟で初めて採用された要素について、南朝からの影響が含ま―61―熊坂聡美

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