鹿島美術研究 年報第37号
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戦時下における画家たちの西洋古典絵画への憧憬―麻生三郎を中心に―れていたことは、疑えない。しかし460年代の曇曜五窟では涼州地域から、続く第7・8窟では西域などからの情報を受容していたことを鑑みるに、第6窟に関しても涼州地域など南朝以外の地域からの情報も受容していたと推測される。実際に第6窟の造像を観察してみると、雲岡では本窟で出現し、その後定着した要素の中には、現在確認可能な南朝造像にも認められない要素がある。例えば第6窟の如来像全体に用いられている波状の頭髪表現は、それ以前の雲岡石窟ではほとんど認められなかったが、西安周辺の石彫像では比較的早期から定着しており、内蒙古や北京市周辺でも太和八年(484)、太和十一年(487)銘の金銅仏や石彫像が出土している。また、中心柱窟という窟形式は、雲岡石窟では第6窟において最初に完成された(開鑿時期が第6窟に先行する第11窟の中心柱は、未完成のまま放棄されている)。中心柱窟の構造が第6窟の形式により近い例は天梯山石窟(第1、4窟)や金塔寺石窟など、河西回廊に位置する石窟に認められる。したがって、(1)460年頃から490年代の各地の紀年銘造像および類例の情報を数多く収集・分析すること(2)河西回廊を中心に分布する早期の石窟群において造像やその周囲の装飾などをどのように組み合わせて石窟空間を構成しているのかを分析すること、という2方面からのアプローチおよび第6窟との比較によって、第6窟で出現した要素の由来と壁面構成の規則の特色について、新たな知見を得ることが期待できる。また、第6窟特有の問題として仏教造像の漢化との関係が挙げられる。本研究を通じ、第6窟がどのような地域や造像から影響を受け、その情報をどのように取捨選択した結果、現在の構成が選択されているのか、つまり第6窟の有する独自性の背景を明らかにすることは、漢化が果たして石窟内の造像の着衣形式など造形面のみで生じたのか、あるいは石窟空間の構成や造窟思想にまで影響を与えていたのかを明らかにすることにも繋がることが予想される。その結果は、龍門石窟をはじめその後盛んに造られた北魏後期の石窟の造窟思想や影響関係を理解するうえで重要な意味を持つと考える。研究者:板橋区立美術館学芸員弘中智子本研究の目的は、麻生三郎(1913-2000)の戦時下、1937年頃より終戦までの作品に注目し、西洋古典絵画からの影響を読み解くことにある。戦時下の麻生は西洋古典―62―

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