西山翠嶂と画塾青甲社に関する基礎的研究研究者:海の見える杜美術館学芸員トピックをきっかけに最新の美術史研究に対する興味と理解を喚起すると考えられる。さらに、本調査研究完成後は、近代の東アジアの美術制度とそこで展開した書芸術の比較分析を視野に、研究を進める構想がある。この比較分析により、東アジアの近代国家の歩みや美術制度の差異を踏まえて、書画一致の感性を源にもつ文化圏で、近代の書が芸術としていかに展開できたかを比較分析でき、日本の事例を相対化して見ることができる。西山翠嶂(1879~1958)は、京都・伏見に生まれ、若い頃より画家を志し、竹内栖鳳(1864~1942)の門下にて学んだ。日本画の学習のみに飽き足らず、一時期、洋画家・浅井忠(1856~1907)から人物デッサンを学んだことも自身の言葉で語られる。若い頃から公募展に出品を重ね、1907年(明治40)に文科省美術展覧会(通称文展)が開催されて以降は官展を中心に活躍し、のちに官展の審査員や京都市立美術工芸学校の校長など、画家としての数々の要職を務めた。また、優れた教育者でもあり、自身の主催した画塾・青甲社において、堂本印象(1891~1975)、上村松篁(1902~2001)、秋野不矩(1908~2001)ら次代を担う重要な日本画家を多く育てた。これら数々の功績が認められ、1957年(昭和32)には、京都で活躍した日本画家としては栖鳳、上村松園に次いで3人目の文化勲章受章者となる。彼が近代京都画壇において重要な画家であることは論を俟たない。翠嶂に関して、高木多喜夫氏が「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」(『京都文化博物館研究紀要第五集朱雀』、京都文化博物館、一九九二年)で当時の雑誌等の資料を悉皆的にあたり、極めて詳細な年譜を作成している。また、田中修二氏が「西山翠嶂と画塾・青甲社」(『大分大学教育福祉科学部研究紀要』、二〇〇二年)にて、翠嶂の生涯にわたる制作および青甲社での活動を丁寧に追い、それらに影響を与えた美術運動および社会の動きと合わせて論じている。しかし、彼自身の画業についての研究はいまだに層が薄く、充分に研究がされているとは言えない。作品の制作年代を推定するための翠嶂の落款・印章等データや、作品の画像を完―67―森下麻衣子
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