小林清親晩年の旅と画業備するレゾネの作成には至っておらず、画塾・青甲社に関しても、この組織が定期的に出していた雑誌等資料、門下生が記した沿革史があることはわかっているものの、悉皆的な収集と公開はされていない。前述のとおり、翠嶂が明治から戦後に至るまで重きをなした京都画壇の大家であったこと、栖鳳の高弟であり、師の画塾のほぼ始まりから終わりまでを見届け、その影響を最も強く受け、画風を継承したと見られること、また青甲社で次世代の重要な画家たちを多く育てたこと等を考えれば、京都画壇の系譜を考える上で、欠かすことのできない存在であることは間違いない。本研究では、現存する彼の作品を調査、それらの制作年代を推定し、翠嶂の画業の中での位置づけを行う。そして画風の変遷をたどり、栖鳳のもとで学んだこと、同時代の画家から受けた影響を考察する。また、彼の官展以外での大きな活動の拠点であり、弟子たちの発表の場でもあった青甲社の活動の実態を、残された資料と作品から明らかにする。作品が散逸し、これまで明らかにされてこなかった翠嶂の画業を編年的に整理し、彼の画業の全貌を明らかにするだけでなく、「画塾」という近代京都において機能していた教育システムにおいて、翠嶂が次世代の画家たちに果たした役割について考究する。研究者:静岡県立美術館上席学芸員小林清親(1847-1915/弘化4-大正4)は、江戸の幕臣の家に生まれ、幕末・維新の混乱期を乗り越えて、画家として身を立てた人物である。画業最初期の5年ほどの間に刊行された《東京名所図》の作品群によって名高く、光線画と称される清新な風景表現は広く知られるが、1881(明治14)年にその刊行を終えてのちは、諷刺画や戦争画、新聞・雑誌の挿絵、肉筆画など多様な創作活動に携わった。清親の生涯は、目まぐるしく社会状況が変化していく、幕末から近代という時代を色濃く反映したものといえる。没後100年を経て清親の画業については再検証が進められており、光線画に関する突出した研究蓄積を追って、それ以外の分野についても調査研究が進展しつつある。その中で、筆者は晩年の旅と画業について注目する。日清戦争を最後の盛り上がりと―68―石上充代
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