鹿島美術研究 年報第37号
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して浮世絵版画の刊行は終息に向かい、晩年の清親は、肉筆画をもっぱらとしてしばしば揮毫旅行に出かけたとされる。記録に残る各地への旅のうち、松本旅行に関してはその詳細を検証した論文がすでにあるが、東北方面への旅に関しては明らかでない点も多い。そこで、本研究では、東北地方の旅に重点を置き、新聞記事をはじめとする一次、二次資料から旅の足取りや交友関係についての基礎的な情報を調査・整理し、作品制作との関連を探っていくこととする。旧幕臣という敗者の立場で維新期を乗り越え、さらに浮世絵終焉の時代を生き抜いた清親は、過渡期の画家のなかでもきわめて独特の道を歩んだ。画家としての清親の全体像はいまだ明確になってはいないが、晩年の制作の実態を知ることで、清親像の輪郭をより明らかにするとともに、近世から近代への転換期における画家の創作を支えた背景に迫ることを目的とする。公刊される版画や新聞・雑誌の挿絵といった広く大衆に向けた創作と、依頼に基づく肉筆画とでは、制作の環境や事情が大きく異なる。清親は、揮毫旅行を成立させるだけの評価と支持を受けた画家として、出版物を介するものとはまた違った社会との関わりを持っていたのであり、今回の調査が、清親の晩年の活動を支えたネットワークの解明につながることを期待している。晩年の画業を支えたひとつの要素として、明治20年代の少年誌の挿絵の仕事を通して、最先端の中央の絵師・小林清親の名が当時の全国の少年たちに広まっていたことが指摘されている。この他にも、清親の画歴あるいは来歴が、晩年の肉筆画制作にリンクする部分があるのか、さらに踏み込んで、旧幕臣という出自が意味を持ったのかどうかという点の検証にも、至ることができればと考えている。また、公の展覧会から離れたところで描かれた、ある意味個人的な要素の強い清親の肉筆画は、現在では制作の経緯が分からなくなってしまったものも多い。旅の詳細をたどることで、制作の経緯を知るための具体的な手がかりを得ることも目指したい。―69―

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