鹿島美術研究 年報第37号
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伊藤若冲周辺における日中画譜・画論の摂取と発展研究者:早稲田大学文学学術院非常勤講師問題の所在・先行研究の現状若冲と親交の深かった相国寺の大典顕常は、若冲が画技を習得する過程について「はじめ狩野派の絵師に師事し、中国古画の模写、そして鶏などの実物写生により絵を学んだ」旨を記しており、若冲研究は基本、この大典の言にのっとる形で進められてきた。しかし近年、2000年の没後二百年、2016年の生誕三百年を記念した展覧会やそれに伴う若冲研究の活発化により、新出資料・作品の発見が相次いだ。時代の流行や風潮と関連付けた考察も進められ、大典の言説による従来の若冲像が揺らぎつつある。若冲作品がその画題、手法、表現のどの程度を先行作品に負っているかを明らかにすることは、若冲画のオリジナリティを過不足なく評価するために、必要不可欠な手続きである。近年の研究では、大典の挙げた狩野派、中国画、実物写生の他に、若冲が南蘋派、黄檗絵画、朝鮮絵画、琳派、博物図譜の影響を受けていると指摘されている。筆者は、若冲が特定の流派の枠組みだけでは語れない独創的な表現を生み出した土壌として、同時代、または少し先駆けて花開いた出版文化との影響関係に注目している。当時の出版文化隆盛の要因としては、印刷技術の向上とともに、中国文化の影響が挙げられる。17世紀後半~18世紀にかけて、主に中国の貿易船によって明清絵画や多くの挿絵本がもたらされ、さらに来日した黄檗僧・来舶画人らの活動がこれまでにない画派・絵画様式成立につながり、江戸絵画が大きく発展した。中でも『芥子園画伝』に代表される中国の絵画教本は中国の基本的な創作理念や画法を日本の画家たちに伝える重要な役割を果たし、さらには日本での画譜類・画論書の出版の契機となった。狩野派に連なる町絵師・林守篤や大岡春卜や橘守国らは中国画譜のエッセンスに加え、それまで門外不出であった狩野派の粉本を誰でも入手できる絵手本として出版、絵画の普及に努めた。18世紀、京都で活躍した伊藤若冲(1716-1800)は鮮烈な色彩や細密描写、奇抜な構図、独特の表現方法などにより現在では「写生派」もしくは「奇想の絵師」という枠組みで語られることが多い。―70―新江京子

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