鹿島美術研究 年報第37号
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蠣崎波響筆《夷酋列像》の研究【意義】されますが、こうした調査は本研究の基礎となる重要な部分であり、全研究期間を通じて行う予定です。また、沖縄県内においては各家系の『家譜』を調査することによって、絵師や画家の同時代的な連携や、埋もれていった絵師や画家の発掘という点も期待出来るかと存じます。こうした調査結果を分析し、近代における琉球の絵画がどのように日本近代美術史の中に位置付けられるか、という点について考察をまとめたいと存じます。端的に申し上げれば、琉球処分以降に生み出された絵画は「日本画」という概念で包括することが可能かどうか、という点を明らかにしていきたいと思います。近年、美術史においても台湾や朝鮮などの旧植民における美術の動向にかんする研究が盛んに行われるようになっておりますが、それ以前に日本に組み込まれることになった琉球についての研究が進展すれば、近代日本の美術の枠組みそのものを再考する契機となろうかと存じます。研究者:東京都江戸東京博物館学芸員《夷酋列像》は、寛政元年(1789)に北海道東部で起こった、アイヌ民族による蜂起に際し、蜂起を鎮圧する松前藩に協力し、同藩から「功績」を讃えられた、「蝦夷」の「酋長」たちを描いたものである。昭和59年(1984)に原画がフランスで発見されたことを機に、《夷酋列像》と波響の名は国内で広く知られるようになる。そして、波響が画技を南蘋派の画家・宋紫石に習い、その画風に通じることから、《夷酋列像》は、南蘋派に属する絵画のなかで唯一の「肖像画」と位置付けられる。他方で、本作の制作事情と照らして本作を論じる諸論考は、この「肖像画」と、文献記録から導き出される当時の蝦夷地の「実体」との差異を取り沙汰してきた。豪華に過ぎる夷酋たちの出で立ちは、「実体」に沿わない「虚構」であり、そこには、屈強な蝦夷を統べる松前藩像を創出する、波響や松前藩の「思惑」があったという見方が、今日定説となっている。しかし、この「虚構」の内実、すなわち、絵に指摘される不可解な描写の数々の意―81―春木晶子

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