鹿島美術研究 年報第37号
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ンス王の外交上の影響力の強さをも象徴することが指摘されているが、史料による裏付けはない。これまでの調査より古代ローマ時代に由来する芸術作品は権威の象徴だったこと、ルイ14世は親政の初期の1660年代から自らを古代ローマ帝国の継承者と捉えていたことがわかっている。さらに、実際にルイ14世はこういった思想を、芸術面ではローマ皇帝に扮した肖像画や彫像を制作させることで、外交面ではヨーロッパの覇権を巡って対外戦争を繰り返すことで実践していた。筆者は先行研究を継承しつつ、鏡の間の機能として宮廷儀礼という視点を導入し、大理石像はルイ14世の造詣の深さを示すと同時に、外交的な成功を示したと仮説を立てた。そもそも、全長72メートルのギャラリーである鏡の間は、従来のフランスの宮殿のギャラリーと同様、王の芸術コレクションを展示し、王権の正統性を示す機能を持っていた。これに加えて鏡の間はこれまでのギャラリーとは異なり、外国使節の謁見が華々しく行われ、フランスの優越があからさまに誇示されたことがわかっている。本調査研究では、ルイ14世の『回想録』(1662年)や書簡、鏡の間の使用法についての同時代人の記録を具体的に調査することにより、大理石像の象徴性をより明確にする。ローマ皇帝の胸像は当時、一般的には完璧な政治の象徴だった。先行研究よりこれら皇帝像は、宮廷がヴェルサイユ宮殿に移った頃から宮殿の豊饒の間にあったが、1703年には鏡の間にあったことがわかっている。筆者は皇帝像が鏡の間に移された理由は1701年の王のアパルトマン[続き部屋の居住区画]の移動とヨーロッパにおけるブルボン朝の覇権の拡大にあると仮説を立てた。それを建築図面と同時代記録の調査により、アパルトマンの各部屋の象徴性と、外交情勢へのルイ14世の意志を明らかにすることで検証する。これまでの調査により、豊饒の間は王のコレクション室への入口であるためコレクションである皇帝像を展示するにはふさわしかったこと、しかし王のアパルトマンの移動により宮殿内の動線が変わって豊饒の間へのアクセスが悪化したことが推測できる。したがってアクセスがよく、装飾の政治性がより強調されるギャラリーである鏡の間に皇帝像を移したのではないか。さらに、1700年にルイ14世の孫がスペイン王に即位し、ヨーロッパでの覇権が拡大したことを受けて、古代ローマの継承者を自称するルイ14世は歴代のローマ皇帝の胸像を鏡の間に飾ることで、自らがその系譜に連なることをあらためて表現したと予想される。以上のように、建築史と外交史の統合によって、彫像の象徴性を読み解くことに本調査研究の独創性がある。―84―

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